ZIPANG-8 TOKIO 20205日間限定の歴史体験!館外展示「出張!江戸東京博物館」東京都美術館にて開催

令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


令和6年2月21日(水)~2月25日(日)
公益財団法人東京都歴史文化財団


江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が足を運んでくださいました。


開館から約30年経過した現在、江戸博は大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館しています。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。


本展では、常設展示室の一部をまとめた展示を東京都美術館の第4公募展示室のロビー階と1階のフロアでご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。 


また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。


本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。


    5日間限定の歴史体験! 開催会場は「東京都美術館」間違えないように‼


『名所江戸百景 』 上野 不忍池 浮世絵師 歌川広重 


[会 期]  

令和6年2月21日(水)~2月25日(日) 

休室日:なし


[会 場]  

※会場は江戸東京博物館ではございませんので、ご注意ください。

東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室


【アクセス】

・JR上野駅「公園改札」より徒歩7分

・東京メトロ銀座線・日比谷線上野駅「7番出口」より徒歩10分

・京成電鉄京成上野駅より徒歩10分

※ 駐車場はございませんので、車でのご来場はご注意ください。

 

[観覧料] 無料


[主 催]  

公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館


[展示構成・主な展示資料]


1 常設展のエッセンスを凝縮した展覧会

江戸東京博物館の常設展示室は、大きく「江戸ゾーン」と「東京ゾーン」に分かれ、20のコーナーで構成されています。本展では、「江戸ゾーン」から〈江戸城と町割り〉〈町のくらし〉〈江戸の商業〉、「東京ゾーン」から〈文明開化東京〉と〈産業革命と東京〉のコーナーをコンパクトにまとめて紹介します。


「江戸城御表御座敷絵図」 賢篤/写 江戸時代中期以降 東京都江戸東京博物館蔵


「諸工職業競 諸車製造之図」(パネル展示) 静斎年一/画 明治12年(1879)
東京都江戸東京博物館蔵


「東都名所高輪二十六夜待遊興之図」(バナー展示)
歌川広重/画 天保12~13年頃(1841~42) 東京都江戸東京博物館蔵


第一国立銀行(模型・部分)  復元年代:明治時代初期(1872~77)
東京都江戸東京博物館蔵


2 常設展でおなじみの体験模型を展示

江戸博といえば、体験模型と思う方が多いのではないでしょうか。本展では人力車をはじめ、千両箱や三輪車などの体験模型を展示します。


人力車(複製)明治時代 東京都江戸東京博物館蔵


千両箱(複製)江戸時代後期 東京都江戸東京博物館蔵


特集展示「上野の山」をめぐる


「上野山王台西郷隆盛銅像」 楊斎延一/画 明治32年(1899) 東京都江戸東京博物館蔵


上野といえば、美術館や芸術、桜や花見というイメージを持つ方が多いと思われます。上野を代表とする上野公園一帯は、武蔵野台地の端に位置し、「上野の山」とも呼ばれています。


江戸時代において、上野は現代と同様に桜の名所でしたが、寛永寺や子院などの寺院が数多く立ち並び、現在の様子とは大きく異なりました。さらに、寛永寺の近くに上野東照宮が建立されるなど、上野は徳川将軍家の宗教的な聖地と言える場所でした。


しかし、慶応4年(1868)の上野戦争により、寛永寺の伽藍など大半が焼失し、一面焼け野原となります。その跡地に病院の建設が計画されますが、視察に訪れたオランダ人医師・ボードワンの提言により、明治6年(1873)に公園に指定され、上野公園が誕生しました。


そして、明治10年(1877)に第1回内国勧業博覧会が開かれると、上野は文化の拠点として数多くの博覧会や展覧会の開催地となりました。現在でも美術館など多くの文化・教育施設が集まり、芸術文化を楽しむ場所として人々を魅了し続けています。


そこで、特集展示として錦絵や絵葉書などの江戸博コレクションから、上野の風景や歴史をご紹介します。現代の風景と比較しながら、その移り変わりをご覧ください。


「徳川家斉葬列絵巻」(部分) 江戸時代末期 東京都江戸東京博物館蔵


「東京上野公園内国勧業博覧会美術館荘飾之図」 歌川広重(三代)/画 明治10年(1877) 東京都江戸東京博物館蔵


関連事業

■甲冑について学ぼう!



甲冑の仕組みや歴史をご説明します。甲冑のレプリカにさわって素材や重さを体験してみましょう。

日時:2月23日(金)

①午前11時~ ②午後2時~

定員:各回15名


■紋切図鑑を作ろう! 



江戸時代に親しまれた「紋切り」遊びは、紙とはさみで様々な形を作り出すことができます。歴史を学びながら実際に体験してみましょう。

日時:2月24日(土)

①午前11時~ ②午後2時~

定員:各回15名

※はさみを使用しますので、小学生以下のお子様がご参加される場合は、保護者同伴でのご参加をお願いいたします。

 

関連講座 えどはくカルチャー

※応募方法や受講料などの詳細は、下記をご覧ください。


上野公園一帯は、「上野の山」とも呼ばれていますが、多くの方は美術館や動物園など芸術文化のイメージがあるのではないでしょうか。本講座では、近世~近代における「上野の山」の歴史を紹介します。


  小林清親画「内国勧業博覧会之図」1877年(明治10)館蔵


日時 2月22日(木)14時~15時30分

会場 東京都美術館 講堂

講師 杉山 哲司(学芸員)

定員 200名

講座コード 11

受講料 1,000円

申込締め切り 2月5日(月)

参加・お申込方法

往復はがきに下記をご記入の上、えどはくカルチャー係あてにお送りください。

申込締切日消印有効です。

1枚の往復はがきにて1講座・1名様までの応募とさせていただきます(1名様につき1通のみ有効です)。

① 希望講座名・講座コード(間違いを防ぐために、必ず両方お書きください)

② 氏名(ふりがな)

③ 郵便番号・住所

④ 電話番号

⑤ 年齢

⑥ 今後の講座のチラシ送付希望の有無

宛先

〒130-0015 東京都墨田区横網1-4-1

江戸東京博物館 えどはくカルチャー係

※応募者多数の場合は抽選となります。

※「消せるボールペン」のご使用は文面が消える恐れがあるためご遠慮ください。

※ お申込み後の住所・電話番号の変更はお早めにご連絡ください。

※ ご欠席のご連絡は当日もお受けいたします。


<注意事項>

会場へのご案内は、当選者あての返信はがきにてお知らせします。

会場への直接のお問合せはご遠慮ください

講師の病気その他やむをえない事情により、講師の変更、講座を延期または中止することがあります。緊急の連絡をすることがありますので、お申込み後、住所・電話番号の変更があった場合には、ご連絡ください。


【新型コロナウイルス感染拡大防止のお願い】

講座当日に発熱や、咳・咽頭痛などの症状がある方については、ご参加をお控えください。

咳エチケット、手洗いや手指の消毒にご協力ください。


<個人情報の取り扱いについて>

はがきにご記入いただきました個人情報に関しましては、公益財団法人東京都歴史文化財団のプライバシーポリシーにもとづき慎重に管理し、江戸東京博物館の活動に関するご案内、希望された方への今後の講座のチラシの送付にのみ使用させていただきます。

個人情報の削除、チラシ送付停止のご請求は、えどはくカルチャー係までお申し出ください。

ご連絡先 03-3626-9974(総合案内)



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


櫛引八幡宮(青森 八戸)


青森八戸  櫛引八幡宮 流鏑馬


9月23日~9月25日まで櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。
秋祭りは1年の中で1番大きなお祭りです。24日は流鏑馬や伝統芸能の奉納もあります。
皆さまの御参拝を心よりお待ち申し上げております。


青森八戸 櫛引八幡宮 拝殿


櫛引八幡宮の草創

櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。

南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、 文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し建久2年(1191年)に入部、 後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し武運長久を祈ったという。

「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、

平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。

また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、別当普門院の祖となったという。

津島平次郎の子孫に当たる 滝沢家は八幡宮の鍵守として、普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。

また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に坂上田村麻呂が祀った 八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。

以後、 櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったのである。


御祭神

御本社・御祭神

八幡大神(ハチマンオオカミ)-別奉称 誉田別尊(ホンダワケノミコト)

脇宮御祭神

天照皇大神(アマテラススメオオカミ) 天津児屋根神(アマツコヤネノカミ)

未社・摂社御祭神

大国主神 (オオクニヌシノカミ)

建御名方神 (タケミナカタノカミ)

惶根神 (カシコネノカミ)

伊弉冉神 (イザナミノカミ)

水波能賣神 (ミズハノメノカミ)

白山比神 (シラヤマヒメノカミ)

素盞雄神 (スサノオノカミ)

猿田彦神 (サルタヒコノカミ)

倉稲霊神 (ウガノミタマノカミ)

武甕槌神 (タケミカヅチノカミ)

伊弉諾神 (イザナギノカミ)

鳴雷神 (ナルイカツチノカミ)

生保馬神 (イクヤスマノカミ)

泥土煮神 (ウヒジニノカミ)

火産霊神 (ホムスビノカミ)

大山祗神 (オオヤマズミノカミ)


境内案内


【境内】

用地は約5万3千平方メートル(1万6千余坪)であり、神域内には樹齢数百年を経た老杉が立ち並び、古来より「八幡山」と呼ばれ、親しまれております。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 南部一之宮 櫛引八幡宮 ~「本日から25日まで、櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4921083



国宝 菊一文字の鎧兜と左甚五郎作 彫刻「鷹にメドツ」


国宝「赤糸縅鎧兜」は、別名「菊一文字の鎧兜」と呼ばれています。



櫛引八幡宮は、鎌倉時代より南部藩(青森県南部・岩手県北部)の総鎮守として、多くの人々に尊崇されてきました。現在の社殿は南部重直が慶安元年(1648に)建立したものであり、また、所蔵の国宝・赤糸威鎧をはじめとした宝物、国指定重要文化財の御本殿など、八幡宮全体が文化財となっています。

境内の国宝館には、国宝の「赤糸縅鎧兜」が所蔵されており、これは別名「菊一文字の鎧兜」と呼ばれ、奈良・春日大社の鎧兜と現存甲胄の双壁をなすと言われています。


櫛引八幡宮 本殿 彫刻

櫛引八幡宮本殿の素晴らしい彫刻をご紹介します。是非お越しください。


青森八戸 櫛引八幡宮 本殿 脇障子(左)左甚五郎作


「メドツ」とは「メドチ」とも言われ、東北地方、青森県で古くから伝わる河童の一種。

子供が川辺で遊ぶ際に、危険だからよく注意をしなさいという意味で「メドツが出るから近づくな!」 と、脅かし気味に注意しているのだそうですよ。

そうですかやはり、飛騨の匠「左甚五郎」(日光東照宮の眠り猫等で有名)の手によるものでしたか。飛騨は故郷の一つ(故郷はいくつあっても嬉しいものです)で八幡様により親しみを感じてきました。


八幡様の池に住むメドツ(河童)です。この姿を拝見して小生今は八咫烏ですが、子供のころのあだ名は「河童」だったことを思い出しました。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020「櫛引八幡宮の国宝と本殿の彫刻に匠の技を見る!(その2)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4926609



正門


江戸時代/四脚門・切妻造・銅板葺 慶安元年(1648年)建立【国指定重要文化財】


櫛引八幡宮は、盛岡藩の総鎮守としてさかえた神社で、青森県八戸市の西方郊外に位置します。

本殿など現在の各社殿は、正保二年~慶安元年(一六四五~八)に盛岡藩の直営で造営が行われた。 三間社流造で、各部を彫刻と極彩色で飾った華やかな意匠をもつ本殿や、東日本で類例の少ない春日造社殿の末社春日社本殿(前号にてご紹介)をはじめとして、同時代の建物が群としてのこっていることが大変に貴重です。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と昔話(その3)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4931072



ご本殿

御祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと):八幡大神(はちまんおおかみ)
江戸時代/三間社流造・銅板葺 慶安元年(1648年)建立 【国指定重要文化財】



「南部一之宮」にふさわしく、当時の規矩にかなった正規の構造手法が認められるものであり、その構えは壮大でかつ優美であり、屋根の流れの曲線の美しさは特筆に値します。 江戸時代前期のものですが、桃山時代の遺風が察しられる名建築であります。


奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡(ぬかのぶのこおり)を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を六戸に勧請し、貞応元年(1222)に四戸の櫛引村に社殿を造営し遷宮したのが始まりとされ、南部一之宮として多くの信仰を集めてきた八幡宮。

本殿は、江戸時代前期の社殿形式を伝える貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されました。国宝・赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)、国宝・白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)をはじめとする宝物や建築装飾など、多くの文化財を所蔵しています。また、境内の「明治記念館」は、青森県に現存する最古の洋風建築として知られています。


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工


明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、県内に現存する洋風建築では最古のものです。


校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられました。 昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至っています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と流鏑馬について(その4)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4936982



「国宝 御本堂」左甚五郎作 木鼻 獅子

「国宝 御本堂」左甚五郎作 木鼻 獅子


天明八年(1788)、幕府巡見使に随行した古川古松軒はその旅行記『東遊雑記』に、

「八戸より一里半西南に八幡村あり。この所に古跡の八幡宮の社塔あり、1039石御領主南部候よりの御寄付あり。この社に宝物数多にて、右の内に新羅三郎義光公の甲胄あり。惣金の銅物にてあたりも輝くばかりなり…


噺し伝えにもかく黄金のみに制せし甲胄あること聞かず。ゆえあるべし。外にも3領あり、よき甲胄なり。太刀も多く、餝りも念の入りし拵えなり。宝物の数かずありて真物のよきものばかり揃いし所は、江戸を出でしより当八幡宮の宝物第一にて、世にめずらしき物を一目せしことなりし。」

と記し、絶賛している。


県重宝 舞楽面 陵王 (ぶがくめん りょうおう)

兜・大袖付附唐櫃  南北朝時代



陵王は羅陵王とも蘭陵王とも呼ばれ、金色の肌で、頭上に首をもたげた龍をつけています。

陵王は中国北斉の武将の名で、怪異な面をつけてよく敵を破ったところから作られた舞といわれ、本来は戦勝を祝うめでたい舞であったが、水の神である龍をつけているところから雨乞いの舞として盛んに舞われました。

この陵王面は吊顎で、目は共彫り、龍が前足を額においてふんばり、炎髪は上部を波形に造り、金色の彩色も良く残っています。


ZIPANG-2 TOKIO 2020「南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝~建築と工芸~(その5)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4942462



櫛引八幡宮では一年間を通していろいろなお祭りが執り行われます。 お祭りは時代を超えた日本文化の結晶であり、伝統・文化を継承させる場でもあります。


元旦祭

【旧暦】ー 【新暦】1月1日


年のはじめに1年間の健康・家内安全を祈願します。


お浜入り神事

【旧暦】ー 【新暦】5月14日


御神威の再生・よみがえりの神事であり、八幡大神様が御神輿にて小中野の御前(みさき
神社に渡御するおまつりです。


秋季大祭

前夜祭:【旧暦】8月14日 【新暦】9月23日
例大祭:【旧暦】8月15日 【新暦】9月24日
馬場洗:【旧暦】8月16日 【新暦】9月25日


青森八戸 櫛引八幡宮 笑い獅子舞


3日間にわたる櫛引八幡宮最重要のおまつりです。
1年間で最大のおまつりであり、神事武芸 流鏑馬・弓道大会・少年相撲大会・文芸大会の他、各種演芸会・奉納会が行われるとともに、お祓いを受ける方やご参拝する方々で賑わいます。


余滴

一戸から九戸まで戸(へ)の付く地名の由来

青森県東部から岩手県北部にかけて一戸から九戸という大変に珍しい数字に戸(へ)の付く地名があります。その由来について簡単にご紹介します。

馬の木戸(きど)説

鎌倉時代のこと源頼朝は、南部氏を甲斐の国(山梨県)から糠部(ぬかのぶ)という地に転封しました。その地の環境から南部氏は領内の各地に牧場をつくり、軍馬を生産したのでした。自然と人々が集まり近くには集落ができました。数字と戸(へ)の付く地名は、元々は牧場の木戸に付けられた番号であったという説です。

柵戸(きのへ)説

奈良・平安時代のことです。蝦夷征伐にやってきた軍隊の駐屯基地では、周辺に柵を巡らして食糧を生産し自給自足で戦っていたようです(当時は、想像するに補給が困難なのと、戦いは人海戦術で長期戦だったのでしょうかね~)。

この柵のことを柵戸といって、それぞれに番号を付けていたものが、地名となったという説です。因みに一戸から七戸までの町村の距離は何と、計ったように約20㎞になります(恐らく、牧場として管理し易いように均等割に計画されたものでしようか?)。

ただし、四戸については当時の細長い地形のせいか現存していませんが(本当にそれだけなのかな~、病室などの4という番号は縁起を担いで使われないのと同じ理由ということも考えられないだろうか?)とは言えその名残として人名の姓だけは残っているようです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~「日本の伝統と文化を継承(最終話)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4947411/



※現在、2200件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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新サイトの記事をご覧いただけます。

ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見その1. 全世界との情報の共有化その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重!その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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