ZIPANG-8 TOKIO 2020地域の農林水産物6産品を地理的表示(GI)として登録&日本食の歴史【農林水産省】

令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


大きな日輪を背負った富士山と水面をモチーフに、日本国旗の日輪の色である赤や伝統・格式を感じる金色を使用し、日本らしさを表現しています。


地理的表示(GI)保護制度とは、地域で育まれた伝統を有し、その高い品質等が生産地と結び付いている農林水産物や食品等の名称を、知的財産として保護する制度です。登録自体が目標達成ではなく、これをスタートとして、食品産業、観光業とのコラボ等を通じてGI産品の持つ価値、魅力をどんどん広げていくことを目的としています。

世界では既に100か国以上が導入しており、日本では平成27年から運用を開始しました。


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登録産品一覧


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農林水産省は、令和6年1月29日(月)に、特定農林水産物等の名称の保護に
関する法律(GI法)に基づき次の産品を地理的表示として登録。


地理的表示(GI)として登録された地域の農林水産物6産品とは


◆登録産品

●ぐしちゃんピーマン(グシチャンピーマン)登録番号第140号

 生産地:沖縄県島尻郡八重瀬町

 生産者団体:沖縄県農業協同組合

 産品の区分:第1類 農産物類 野菜類(ピーマン)


●大野豆(オオノマメ)登録番号第141号

 生産地:香川県高松市香川町大野、香川町寺井及び寺井町

 生産者団体:大野豆プロジェクト

 産品の区分:第1類 農産物類 穀物類(乾燥そらまめ)、

       野菜類(未成熟そらまめ)


●青森の黒にんにく(アオモリノクロニンニク)登録番号第142号

 生産地:青森県

 生産者団体:協同組合青森県黒にんにく協会

 産品の区分:第5類 農産加工品類 野菜加工品類(黒にんにく)


●備前黒皮かぼちゃ(ビゼンクロカワカボチャ)登録番号第143号

 生産地:岡山県瀬戸内市

 生産者団体:備前黒皮かぼちゃ振興協議会

 産品の区分:第1類 農産物類 野菜類(かぼちゃ)


●淡路島3年とらふぐ(アワジシマサンネントラフグ)登録番号第144号

 生産地:兵庫県淡路島福良湾

 生産者団体:福良漁業協同組合

 産品の区分:第4類 水産物類 魚類(とらふぐ)


●西わらび(ニシワラビ)登録番号第145号

 生産地:岩手県和賀郡西和賀町

 生産者団体:西和賀わらび生産販売ネットワーク

 産品の区分:第1類 農産物類 野菜類(わらび)

       第5類 農産加工品類 野菜加工品類(わらびの水煮)



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

農林水産省 〒100-8950 東京都千代田区霞が関1-2-1 電話:03-3502-8111(代表)

九州農政局 〒860-8527 熊本市西区春日2丁目10番1号 電話:096-211-9111(代表)

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事ご覧ください。


奈良三輪明神縁起絵巻・神武天皇と五十鈴姫 大神神社         編集局イメージ



     天皇陛下お田植え 宮内庁            編集局イメージ


     天皇陛下(現:上皇陛下)お稲刈り 宮内庁    編集局イメージ



【日本食の歴史】

日本食の歴史 アジアのなかの日本食 日本食といえば、誰もが米を思い浮かべるだろう。確かに朝鮮半島でも中国でも、あるいは東南アジアの国々でも、米が食べられているが、とりわけ日本では米が重要な位置を占めてきた。そして日本でおかずといえば、今でこそ肉の消費量は増えたが、やはり魚のイメージが強い。こうした米と魚は、基本的には東南アジア・東アジアというモンスーンアジアの大きな特徴で、高温多湿なことから稲作に適するとともに、これには大量の水が必要で、そこには魚が棲むことから、米と魚の文化が生まれた。

これに対して、西アジア・中央アジアおよびヨーロッパなどでは、寒冷乾燥な気候であることから、麦作が盛んで小麦が主な食料となっている。これには牧畜が伴い、乳を出す牛や羊などが飼われることから、肉と乳が組み合わされた食生活が営まれた。米は脱穀して精米すれば、そのまま粒で食べることが出来るが、小麦は外皮が剥がれにくく粉食とするほかないので、パンやナンあるいは麺となる。これらを食事のメインとしながら、牧畜による肉と乳製品を利用するため、麦と肉の文化が展開をみた。

そして米と魚の文化では、魚を発酵させた魚醤や大豆を用いた味噌・醤油などの穀醤が調味料となり、麦と肉の文化においては、肉や骨を煮込んだスープとクリーム・バター・チーズなどが味付けの主体となっている。ただ中国大陸では、北部には麦と肉の文化が広がるが、南部では米と魚の文化が基本であった。このため日本の食文化は、中国大陸南部の延長線上に位置するものと見なすことができる。

こうして東南アジア・東アジアの稲作地帯では、米と魚が食文化の中心となったが、これに動物性タンパクとして、ブタとニワトリが加わった。いずれも牧畜の動物のように、乳を出すメリットはないが、ニワトリは卵を産むため広く利用された。ニワトリは中国南部・ラオス北部の山岳地帯で家畜化が始まったと考えられるが、かなり早くからユーラシア大陸全般に広がり、西の麦文化の世界へも広まった。

またイノシシの家畜化によるブタの飼育もアジアでのことと思われるが、ブタは放っておいても回りの草や廃棄食料などを食べて育つため、ニワトリとともに稲作労働の傍らで簡単に飼うことができる。これらは魚とともに、米の飯の重要な菜となったが、日本では、かなり特殊な事情が生まれた。おそらく稲作の伝来とともに、日本でもブタの飼育が行われた形跡が認められるが、このブタが途中から欠落していった点が注目される。その意味で、日本の米文化は、アジアのなかではかなり特異なものとなったといえよう。

その理由や事情については、後に触れることとするが、また一方で、今日の日本の領域全てで、稲作が行われていたわけではない。つまり日本列島全体を、米文化が覆ったわけではなく、北海道と沖縄には稲作が及びにくく、むしろ古代以降の日本が排除してきた肉文化が豊かに発達した地域であった。この南北二つの地域は、すでに古代から密接な関係にあったにも関わらず、日本に組み入れられるのは明治すなわち近代以降のことであった。

こうした歴史的事情を踏まえた上で、米という私たちに非常に親しみの深い食べ物を中心に、日本における食の歴史を眺めていくこととしたい。それゆえ、米以外の食物にも注意を払いながら、稲作以前および南北の問題についても、充分に眼を向けつつ、歴史のなかの日本食の全体像を見つめ直していきたいと思う。

日本食形成へ道のり 日本食の起点 日本列島が今日のような形になったのは、氷河期が終わった縄文時代以降のことで、それ以前の大陸と地続きであった旧石器時代から、人々が住み着くようになった。その時期については、さまざまな議論があるが、早ければ7~8万年前、確実なところでは3万年前とされている。ただ低かった気温のため植物性食料への依存が難しかったことから、いきおい動物性食料が重視された。それゆえ人々は、マンモスやオオツノジカなどの大型獣をはじめ、そうした自然界からのさまざまな食料を入手し、日々を生き抜いていた。

しかし温暖化が進み、海面が上昇した縄文時代になると、植生もかなり変わって、ドングリなどの木の実の食用が可能となった。そうした食料の安定化は、人々に時間的余裕を与えるところとなり、道具の工夫や発達を促し、土器の製作が行われるようになると、煮炊きがいっそう容易なものとなった。つまり加熱によって味覚のみならず、解毒や保存にも大きな効力を発揮するようになった。とくに長時間の加熱は、灰汁を除くことで木の実なども食べやすくなり、食物の範囲は急速に拡大した。

こうして縄文時代においては、狩猟などによる動物食よりも、植物性食料が重要な役割を果たすようになった。かつては食用植物の栽培つまり農耕は、弥生時代以降のこととされていたが、近年では縄文時代においても農耕が行われていたことが確認されている。縄文時代の始期については、近年では一万数千年前とされているが、ほぼ4~5000年前の縄文中期頃には農耕が行われていたものと考えられている。

すでに、この時期に一部では、おそらく焼畑によって稲作も行われていたようであるが、主要な生業となるには至らず、縄文晩期になって、ほぼ疑いなく朝鮮半島経由で水田稲作が、北九州付近に伝わった。これは弥生時代に入って、かなりのスピードで本州や四国・九州へと広まっていった。ただ弥生水田は、青森県にまで及ぶが、これは海路によるものと思われ、基本的に本州東部・北部には、その形跡が薄いとされている。ちなみに弥生時代については、かつて400年前後続いたと考えられていたが、近年では一千年近いとする説が有力視されている。

いずれにしても弥生時代に、米を中心とした食文化の形成が日本で始まったことになる。米は、非常に生産効率が高いばかりでなく、食味が豊かで栄養価に優れ、かつ保存にも適した優秀な食べ物であった。こうして新たに始まった米を中心とする食文化が、その後の日本食の歴史に、最も大きな影響を与えた。そして米は、「はじめに」で触れたように、水田稲作の一環として、稲とセットになる魚の保存法であるスシとともに、ブタの飼育という文化を伝えたものと思われる。

まずスシについては確証があるわけではないが、稲作とともに水田漁業による魚を用いたナレズシが伝来した可能性が高く、琵琶湖に残るフナズシなどを、その名残と考えることもできる。すなわち魚を米飯に合わせて圧力を加えることで発酵を促し、熟成による旨味を引き出すとともに、長期の保存を可能にするもので、やがて、この原理を適応しつつ改良を進めて江戸前の鮨が出現したことになる。

またブタに関しては、弥生時代のイノシシと考えられていた動物の骨が、近年では、多くがブタのものとされるようになり、稲作の受容とともに、ブタの飼育が行われていたことが指摘されている。つまり弥生時代の米文化は、東南アジア・東アジアの場合と全く同様に、米と魚の組み合わせに、ブタという肉が付随したものであった。ただ『魏志』倭人伝などでは、死者の喪などの際に肉食が忌避されている点に留意すべきであろう。

いずれにしても、米を中心とした日本食という観点から考えた場合、水田稲作を全面的に展開し始めた弥生時代こそ、まさしく、その起点であったと考えて疑いはない。ただ、弥生時代の水田稲作は、必ずしも米という食料を、全ての人々に行き渡らせたわけではなかった。つまり弥生時代でも、米以外の食料も重要な位置を占めており、ブタの飼育などを考え併せれば、今日のものとはかなり異なっていたとしなければならない。

日本食の形成 その後の古墳時代には、王たちの巨大な墓が造られるようになるが、これには高度な土木工事が必要で、水田造成に共通する技術との関連性が高い。さらに王権に基づく集団的な労働力の動員が可能となったことに加えて、この時期におけるウシやウマの移入が、水田の発展に大きな効果をもたらした。しかも米は優秀な食品で、備蓄性が高いことから、社会的な富と見なされ、租税として人々に賦課されるようになった。やがて大和政権による全国統一が進んで、大化の改新を契機に、古代律令国家が成立すると、その政策においても米が非常に重要視されるところとなる。

栄養価の高い米は、古代人に力の源と見なされており、力餅や力ウドンという言葉が象徴するように、力の源となる米の加工品には特別な位置が与えられた。主税と書いて「チカラ」と読むのも、そうした事情によるもので、最も重要な租税は米であった。それゆえ古代国家は、畑地は無視して水田のみを口分田として人々に与え、租すなわち米を最も重視した。それは土地政策にも如実に現れ、百万町歩開墾計画や三世一身の法・墾田永世資材法を発布し続けたのである。

そして日本では、米の生産のために肉が犠牲とされた。古代国家の最盛期の天武天皇4(675)年には、いわゆる肉食禁止令が出されている。しかし、これは単なる仏教による禁令ではなく、その前後の状況や他の法令から判断すれば、米作りのための方策で、動物の肉を食べると稲作が失敗するという観念に基づくものであった。これは、先に見た『魏志』倭人伝の災いがあった時に肉を断つという伝統を引くもので、重要な願い事つまり稲の豊作のためには、肉を食べないとする思想の実現であったと考えられる。

いっぽうで米は、尊い聖なる食べ物としての位置を確立し、祭祀のなかで重要な役割を果たすようになる。現在でも、正月をはじめ村々や家々での祭祀の際に、米は大切な捧げ物で、米から作った餅と酒は欠かすことができない。また天皇が執り行う新嘗祭・大嘗祭などの国家祭祀においても同様で、天皇が毎年皇居の水田で、春には田植えをし、秋には稲刈りをする様子は、しばしば新聞・テレビでも報道されている。

こうして日本では、米のために肉を否定したが、やがて肉は穢れと見なされ、米が聖なる食べ物として、社会的に受け容れられていくことになる。これが東南アジア・東アジアの稲作を受容しながらも、それらの地域とは非常に異なって、ブタを伴わない米文化を成立させるところとなった。それゆえ動物タンパク摂取の観点からは、肉の代わりに魚が重視され、最も典型的な形で米と魚の食文化が発達を見たのであり、鮨に象徴されるように魚食に特化した食事パターンが一般化したのである。

さらに米を重視した古代国家においては、調味料も今日の日本食に近い状況が形成されつつあったことが窺われる。国家機構の食事を預かる大膳職という部署には、醤院がおかれたが、ここでは味噌や醤油の原型となる醤の管理が行われていた。先にも述べた魚醤は、日本へもかなり古い時代に入ったものと思われ、古代の『延喜式』などには、肉醤も見えるなど、一般的な調味料であった。しかし醤院で厳重に管理されていた醤は、明らかに穀醤で、極めて貴重な調味料として意識されていたことが窺われる。

このように古代においては、その頂点をなす国家レベルで、米を食事の中心とし、穀醤を主要な調味料とするような今日の日本食に近い味覚体系が、次第に形成されつつあったと見なしてよいだろう。

食生活の現実 しかし国家の最高レベルでは、米を中心にいわば日本的な食事体系が整いつつあったが、食生活には極度な階層差がつきまとうことも忘れてはならない。確かに肉食は、穢れたものとして社会的に遠ざけられていったが、その本格的な排除にはかなりの時間を有したし、弥生時代のところで論じたように、米も人々に充分な量を供給できたわけではない。むしろ米は税として農民から吸収されたという事実は重く、かつ米はどこでも作れたわけではない。なかでも日本で好まれる温帯ジャポニカは、適度な水と気温を必要とするため、基本的には水田が必要であった。

米作り=水田と考えるのは、あくまでも私たちの常識でしかなく、実は地下に含まれる充分な水量があれば、畑地でも稲作は可能である。東南アジア・東アジアでは、水田以外に畑地でも稲作が行われており、極端な場合には焼畑でも米が作られている。これは熱帯ジャポニカとされる米の種類で、日本でも縄文時代に部分的に見られた稲作は、これを用いていた可能性が高いが、弥生時代以降の稲作は、基本的には温帯ジャポニカが主流で、水田を前提とするものであった。それゆえ古代国家は、水田のみを重視したのである。

こうした日本での温帯ジャポニカ栽培は、先にも述べたように適度な水と温度管理を必要とするため、一歩それらの歯車が狂えば、たちまち凶作となって食料不足を惹き起こした。このため古代国家は、そうした場合に供えて、農民には畑作も推奨し、麦で命を繋いで米を租税として納めるよう指導している。あくまでも米を中心として、魚食を組み合わせた食事は、国家の官僚である貴族や地方役人である豪族、あるいは中央の大寺院の僧侶や神社の高級神主たちのものでしかなかった。

多くの人々にとっては、米は貴重な食料であり、麦や雑穀もしくは芋などが身近な食べ物であった。もちろん穢れるとされる肉も、これを無視しては動物性タンパクの摂取に難しかった。もともと古代の殺生禁断令でも、禁止されたのはウシ・ウマ・サル・ニワトリ・イヌのみで、イノシシとシカは対象とはなっていなかった。肉をニクと読むのは音読みで、日本語としての訓はシシに過ぎず、イノシシ(猪)・カノシシ(鹿)・カモシシ(羚羊)は、古来から日本人が食べ続けてきた肉であった。 しかし殺生禁断令以降、次第に肉が穢れたものと意識されたところから、イノシシやシカも穢れの対象となり、基本的に口にすることは避けられていった。ただ米の生産力が厳しかった段階においては、多くの人々に肉食は不可欠で、広く食されていた。もちろん貴族や都市民の一部にも、肉を好む人もおり、京都にもシシ肉が販売されるルートさえ成立していた。いわゆるシカの紅葉鍋・イノシシの牡丹鍋・ウマの桜鍋など野獣食の伝統は、鍋という調理法を別とすれば、かなり古い時代にまで溯ると考えて良いだろう。

ただ古代に始まった肉食の禁忌は、水田の開発と生産力の増強が進んだ中世という時代を通じて、徐々に社会の下層まで及んでいく。基本的に中世末期頃には、広く社会的に米飯を中心に、魚を添え野菜などを伴う今日に至る日本的食生活が完成をみる。

これに呼応するように、中世を過ぎて近世に成立した江戸の幕藩体制は、経済的には石高制という形で、ほとんどの経済価値を米で表示するという世界的にも特異な社会システムが誕生をみた。また近世においては、肉を食べると眼が潰れるとか口が曲がるとかいう俗信を生み出したが、社会の一部では薬喰いや鹿食免などと称して、肉食が行われていたことも忘れてはならない。

日本食文化の充実 大饗料理 日本古代における料理様式については、史料的に不明な部分が多く、その内実を知ることができない。こうした料理は、日常の食事とは異なり、祭礼などの儀式の際に最も手の込んだ食べ物が神仏に捧げられるもので、一定の様式を伴うと考えなければならない。その意味においては、神々への神饌を起源と考えてよいが、今日に見られる神饌には、明治初年における神道祭式の変更が大きな影響を及ぼしている。

もともと神饌は、食べ物を神に捧げた後に、祭祀に携わった人々が神と共に食べるものであるから、すでに調理を済ませた熟饌が基本となる。しかし明治以降は、食材そのままの生饌中心に改めたため、古い形式が分からなくなってしまった。もちろん春日大社や談山神社などの神饌から、一定の形式を窺うことができるが、すでにこれらには朝鮮半島を経由して入ってきた盛り物や仏教による彩色の影響が顕著で、それ以前の姿については不明とするほかはない。従って日本で最も古い料理様式は、神饌料理であったと考えられるが、その詳細については明確に出来ないのが現状である。

現在知りうる範囲で、最も古い料理様式が大饗料理となる。大饗料理は、藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられた時や正月などに、天皇の親族を招いて行う儀式料理である。ただ、この時代は料理といっても、生物や干物などを切って並べたもので、味付け自体は、自分の手前に置かれた四種器と呼ばれる小さな皿に、塩や酢あるいは醤などを自ら合わせ、これに浸けて食べるだけであった。これは料理の最も原始的なもので、それぞれが餃子のたれを好みに合わせ作って食べることに似ている。

東南アジアなどで食事をすると、必ず食卓には何種類かの調味料がおかれてあり、それぞれが自分の好みに合わせて味を調える。韓国でも必ずコチュジャンなどがおかれるほか、サムゲタンなども、古い店では食べる直前に塩・コショウを自分で調整する。またギリシャなどでは、ワインビネガー・オリーブオイル・塩・コショウの四つがおかれており、サラダドレッシングは、自分で好みに合わせたものを作るのが常識となっている。まさに大饗料理も同じ発想であった。

また大饗料理では、料理の皿数は必ず偶数で、手元には箸と匙とが置かれている。匙は朝鮮半島では定着を見たが、日本では大饗料理に取り入れられたものの、一般に使用されることはなかった。しかも大饗料理は、身分によって料理数は異なるが、盤上一面に並ぶ様子は、朝鮮半島に韓定食に似ている。このほか、小麦粉を練って油で揚げた八種唐菓子が添えられることなどからも、明らかに大饗料理は、朝鮮半島経由で入った中国料理の影響が著しいことが分かる。

こうした大饗料理は、古代の上層部で行われた料理様式であるが、古代国家が律令という中国の法律体系を模倣したように、儀式料理についても同様に中国のスタイルを真似て完成させたものであることが明らかである。ただ大饗料理にも、一部ではあるが日本的な特色を見出すことができる。それは切るという調理で、この頃から料理人を庖丁人と呼んだことに象徴される。また庖丁上手とは料理がうまいことで、切り口の冴えが料理の出来映えを決した。

例えば美しく切った刺身が美味しいのは、するどい片刃の庖丁で魚肉の細胞を壊さずに切断することによって、肉汁の旨味を逃げ出させないという調理が施されたことになる。日本の神饌の特徴は美しく切ったものを、その切り口を見せながら重ね上げるのに対して、朝鮮半島などの盛り物は、食品そのものを串などで積み上げるという点が異なる。大饗料理は明らかに中国の影響を受けたものであるが、そこには庖丁で美しく切ることを強調する日本的な特徴を読みとれるのである。

精進料理 大饗料理以後のまとまった料理様式としては、禅宗の僧侶の間で行われた精進料理がある。平安時代末期には、奈良仏教や天台宗・真言宗に対する不満が高まり、真剣に仏教を志す僧侶のなかには、中国での仏教修行を試みて南宋などに渡るものが少なくなかった。当時の中国仏教界では、禅宗が最も重要視されており、そこでは肉食忌避の思想に基づいた精進料理が主流であった。

しかも、この精進料理は、唐代に西方から導入された水車動力によって、製粉技術が著しく高まり、粉物の大量供給が可能となっていた。いうまでもなく精進料理は、仏教徒が肉を断つため、味わいとしては肉に近いものを口にできるような工夫が凝らされている。つまり植物性食料を濃い味の動物性食料の味に近づけるためには、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料を合わせる必要があり、整形の容易な粉食が大きな前提となっている。ただいずれにしても、味覚の調合という意味において、精進料理が料理技術に飛躍的な進歩をもたらしたことに疑いはない。

しかも精進料理は、僧侶自らが調理にあたるため、彼らは仏教修行のみならず、料理技術も習得した。こうして中国で禅宗を学んだ僧たちは、日本に帰って禅院を開くなどして修行するとともに、そこで精進料理を広めた。そうした禅僧たちの代表として栄西や道元などが名を残した。なかでも道元は、『赴粥飯法』『典座教訓』といった書物を著し、精進料理そのものに関する記述はないが、食事の意味や禅院における料理当番の役割などについて言及している。おそらく道元は、日本で初めて仏教の立場から、食べるという行為について、深い哲学的な考察を行った人物でもあった。 こうして鎌倉期から南北朝期にかけて、精進料理はめざましい発達をみせたが、その代表例については、『庭訓往来』十月状返に詳しい。ここでは点心類として「鼈羮・猪羮・砂糖羊羹・饂飩・饅頭・索麺・碁子麺」など、菓子として「柑子・橘・熟瓜・煎餅・粢・興米・索餅」など、汁として「豆腐羮・雪林菜、並薯蕷・豆腐・笋蘿蔔・山葵寒汁」など、そして菜に、「煮染牛房・昆布・烏頭布・荒布煮・黒煮蕗・蕪・酢漬茗荷・茄子酢菜・胡瓜・甘漬・納豆・煎豆・差酢若布・酒煎松茸・平茸雁煎・鴨煎」などが見える。

ここに特徴的なように、精進料理は、穀物粉を用いたものや、さまざまに味付けられた野菜類・菌類のほか、果物類が主体となっている。そしてスッポン・イノシシ・ガン・カモなどといった動物名が示すように、植物性食料を鳥獣肉に見立てて、それに近い味を出すところに特徴がある。こうして肉食への願望を、調理技術によって満たそうとしたのが精進料理であり、先にも述べたように、その実現には高い技術力が必要とされた。

こうした料理技術を蓄えていたのは、当然のことながら禅院の僧侶たちであった。彼らは広い意味で料理人であるが、その伝統的な呼称である包丁人ではなく、調菜人と呼ばれた。あくまでも魚鳥を扱うのが庖丁人で、調菜人は精進物を料理する僧侶の仕事であった。ただ本格的な精進料理は、禅院でも重要な茶礼などの際に供されるものであったが、こうした調菜人は、精進料理のうち饅頭などにも作ることから、単に禅院だけに止まらず、贈答などに用いられた点心類の製造にも携わったものと考えられる。

いずれにしても中国からの移入によって成立をみた精進料理は、初めは禅宗の寺院内部で発達をみたが、やがてその高度な調理技術は、一般にも広まるところとなって、鎌倉期以降における料理文化の展開に大きな役割を果たしたとみてよいだろう。

本膳料理 もともと武士は、大饗料理の催した貴族の従者で、その振舞として芋粥に預かったという話が、芥川龍之介の小説『芋粥』で、その原話は平安時代の『今昔物語集』に見える。つまり初期の武士は貴族のいわばボディガードであったが、やがて貴族の権力を凌駕し、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府が成立をみて、武家が政治の表舞台へと躍り出ていくこととなる。これに呼応する形で、武家も独自の料理様式を模索したが、その完成にはかなり長い時間を要した。

鎌倉時代には将軍によって垸飯という料理が振る舞われたが、これは貴族の大饗料理の一部を切り取ったに過ぎず、武家の文化は貴族の文化の後追いでしかなかった。なお鎌倉幕府は、初めは関東を中心とした地方政権とも見なすべきもので、南北朝期に後醍醐天皇が一時政権を奪取したが、基本的には南北朝を統一した室町幕府によって、武家が実質的な全国の支配者になったと考えて良い。まさに武家の料理文化も、この室町時代に新たな様式としての本膳料理が登場をみることになる。

この本膳料理は、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素とが組み合わされたもので、ここに本格的な料理様式が成立をみた。しかも膳を用いて、七五三という奇数の膳組を基本とするところから、極めて日本的な要素が高いとみなすことができる。すなわち中国では、大饗料理のように卓に料理が盛られて、その皿数は偶数であったが、本膳料理では銘々に膳が用いられ、奇数の料理を据えて、箸のみが使われるようになった。ちなみに膳は、朝鮮半島・沖縄で使用されており、椅子を伴わない座居の文化を基礎とする地域に広まった。 

本膳料理の構成は、酒を中心とした献部と食事を主とする膳部とからなり、膳には汁が伴っている点が注目される。そして儀礼的要素が強い式三献に始まり、初献・二献・三献と続いた献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与(四)献以後、一七献あるいは二一献という献部が再び続いて全てが終了する。こうした本膳料理が供される御成などの饗宴では、後半の献部ごとに能が演じられ、全体が終わるまでには、夜を徹することになる。

室町時代以降の非常に盛大な饗宴には、こうした本膳料理が供されたが、これは大饗料理と同様に、前々から作りおかれた。従って儀式料理としての性格が強く、膳や皿の一部には金銀での装飾も施され、華々しい雰囲気のなかで食事が楽しまれた。まさに新しい日本料理が出現したことになるが、奇数の膳形式に限らず、料理内容についても、日本料理の原型が完成をみた。つまり本膳料理に伴う汁に象徴されるように、その出汁の基本にカツオと昆布が用いられている点に注目する必要がある。

こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる昆布を前提とするもので、非常に広域な商品の流通網が、この時期に成立していたことを示している。またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立したことになる。そして、こうした料理発展に伴い、その技術を伝承し磨きをかける料理の家が成立をみた。

つまり武家料理流派の誕生で、旧来の公家系のそれを伝えた四条流に加えて、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派の家々であった。そこでは故実や作法を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えたが、その一部がそれぞれの流派内で料理書として残ったのである。

懐石料理 先にも述べたように、本膳料理は儀式用であり作り置きが当然であったため、料理そのものは豪華でも、冷めた状態で食べなければならなかった。これは真に美味しい料理を味わうというよりは、儀式のなかで、それぞれの身分に応じた料理を食することに意味があった。すなわち本膳料理が供されるような儀式の場では、身分秩序が重要な要素を占め、振る舞われる料理数や座席の位置関係が大きく作用した。身分によって料理内容が異なるのは、大饗料理ではより著しく、それは自らの社会的位置関係を物語るものであった。

こうした堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を、自由に楽しもうとして発展をみたのが、懐石料理である。従って懐石料理は、本膳料理の一部を切り取ったようなものであったが、基本的には料理を楽しむということに力点が置かれている。しかも懐石料理は、茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が重要であろう。とくに茶の湯は、禅院の茶礼と関係が深く、精進料理の系譜にも繋がっており、味覚面のみならず精神面も重視された。

もともと茶会では、闘茶すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が優先される場合も少なくなかった。そこに精神面を重んじた珠光や武野紹鴎らが出て、茶の湯の形が整えられていったが、茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を、戦国時代後期に千利休が切り捨てることで完成をみた。一汁三菜程度の料理を基本としたが、茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものの内容にも大きな影響を与えた。

すなわち懐石料理で、季節性を重んじて旬の素材にこだわるのは、そうした理由からであった。さらに、その茶会の一時を大切にするため、食器にも心を配り、盛り付けにも気をつかった。こうして季節感のみならず色鮮やかな料理や食器の配置、合理化された作法によるもてなしのほか、料理を味わう空間のしつらえにも最善を尽くした。もちろん暖かいものを暖かいうちに戴けるように、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。こうして世界的にも評価の高い懐石料理が生まれたのである。

なお懐石の語は、利休の時代には用語としては使われず、むしろ会席の方が一般的であった。ところが近世後期になると、後にみるように大都市には高級料理屋が出現し、そこで会席料理が供されるようになる。しかし、この会席料理は茶の湯とは無関係であった。より正確にいうなら、戦国時代に成立した懐石料理から、茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とみなしてよい。つまり数人が料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理であったということになる。

懐石の故事とは、禅の修行僧が温石を懐にして身体を暖め空腹を凌いだという逸話に由来するもので、茶事で供される軽い食事を懐石と称したことに因む。これは江戸も元禄期に入って広く読まれた『南方録』に見える語で、しかも利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されている。従って、やや紛らわしい話ではあるが、戦国時代に生まれた茶の湯に伴う料理様式を懐石料理とし、近世後期に出現した料理屋で供されるものを会席料理と呼ぶこととしたい。(日本食文化テキストより)


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「農林水産省 日本食文化テキストより【日本食の歴史】」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1613370



世界農業遺産 若宮八幡神社 湯立神事                編集局イメージ


世界農業遺産(※1)は、社会や環境に適応しながら何世代にもわたり形づくられてきた伝統的な農林水産業と、それに関わって育まれた文化、ランドスケープ(※2)、生物多様性などが一体となった世界的に重要な農林水産業システムを国連食糧農業機関(FAO)が認定する仕組です。 世界では15ヵ国36地域、日本では8地域が認定されています。


※1 世界農業遺産 正式名称は、“Globally Important Agricultural Heritage Systems”。FAOによる正式な定義は、「コミュニティの環境及び持続可能な開発に対するニーズと志向とコミュニティの共適応により発展してきた世界的に重要な生物多様性に富む優れた土地利用及びランドスケープ」。

※2 ランドスケープ 世界農業遺産においては、「土地の上に農林水産業の営みを展開し、それが呈する一つの地域的まとまり」と定義。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「国連食糧農業機関(FAO)が認定する【世界農業遺産】とは」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1633105



20 能登志賀ころ柿                         編集局イメージ


地理的表示登録商標(GIマーク)の海外商標登録について

農林水産省では、登録された地理的表示と併せて貼付することで、真正な地 理的表示産品であることを証することとなるGIマークが海外で模倣使用され ることを防止するため、農林水産物等の主要な輸出先国において、商標として の登録申請を行っていますが、この度、カンボジア王国、フィリピン共和国及 び欧州連合(EU)において商標登録されたのでお知らせします。 


これにより、これらの国・地域においても、不正にGIマークを貼付して農 林水産物等を販売した場合、商標権者として差止要求を行うことが可能となり、 GIマークにより真正な日本のGI産品であることが確認できるようになりま す。


現在までに、GIマークは海外9か国(地域)で商標登録されています。詳 細については以下を御覧下さい。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「地理的表示(GI)に関するPRイベント並びにシンポジウムの開催及び参加者の募集と地理的表示(GI)登録産品について」のご案内
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1845879



信州 雪まち野菜

長野県信濃町「雪まち野菜」                     編集局イメージ


長野県上水内郡信濃町は、1月から2月の厳寒期ともなると2mを越える降雪を記録する地域です。1日の最深積雪が1mを越えることもあることから全国有数の豪雪地帯として知られ、国から特別豪雪地帯に指定されています。

そのため、冬期は除雪や雪下ろしをはじめとしたさまざまな雪対策が必要です。雪のある暮らしは大変なこともありますが、雪は豊かさをもたらしてくれる自然の恵みでもあります。


長野県信濃町「雪まち野菜」                     編集局イメージ


※雪中野菜 とは

雪国の人々が冬の貴重な食糧を保存するために行ってきた昔ながらの野菜の保存方法です。深い雪の中で保存された野菜は凍結から身を守ろうと、甘くなります。厳しい寒さに耐える、そんな野菜たちの強さが雪中野菜の凝縮された美味しさの秘密です。

長野県信濃町は豪雪地帯のため、冬の農作物の栽培ができず、農家の収入確保は長年の課題となっていました。そこで、町内の農家と連携し雪を活用した新たなブランド『雪まち野菜』を立ち上げました。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 小林一茶 雪の故郷「信濃町」豪雪地帯の特色を活かし新ブランド『信州 雪まち野菜』
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/29698472



北国街道巡り

古間宿 野尻宿 柏原宿

俳諧寺(一茶俤堂)                         編集局イメージ


【古間宿】


短夜(みじかよ)を 古間の人の たくみ哉  一茶


古間宿は、鳥居川をはさんで隣接する柏原宿と合宿で、月後半の人馬の継ぎ立てを分担した。

古くから宿場を任され、1583年ころの越後上杉氏の文書があり、これら伝馬宿に関する文書十通二巻は信濃町指定文化財となっている。

当初の伝馬屋敷を「御免許屋敷」といい、35軒であったが、1810年(文化7年)には家数85軒・人数375人・馬36匹となった。

宿の中ほどにある本陣古家には、1868年(明治元年)戊辰戦争で通行した官軍方の関札が残されている。

1818年(文化15年)ころ信州鎌の元祖といわれる荒井津右衛門、小林重左衛門、荒井平右衛門が鍛造技術の向上に努め、その後熊坂村から移り住んだ佐藤要八らが古間鎌を発展させた。

古間の一茶門人には雪居と白飛がいて、一茶はたびたび訪れていた。


【野尻宿】


そば所(どこ)と 人はいふ也 赤蜻蛉  一茶


野尻宿は信州北端の宿場として重要な位置にあった。

仲町が役屋敷で、はじめは51軒であったが、1781年(天明元年)の絵図によると、役屋敷76軒のうち、間口六間以上の馬役32軒・五間以下の歩行役43軒で、13軒が旅籠屋を営んでいる。

野尻宿は俳句が盛んで多くの一茶門人がいた。

野尻仲町信号の西側に「明治天皇御膳水」の碑があるが、医師竹内又玄の井戸水を献上したものという。先代の迅碩が一茶の父弥五兵衛や、妻きくの診察をしている。


【柏原宿】


霞(かすむ)やら 雪の降(ふる)やら 古郷山  一茶


柏原宿は野尻と古間の間の宿場で、はじめに伝馬屋敷52軒分がつくられた。

町用水・松並木・宿場の出入口には土手が築かれ、東に飯山道、西に戸隠山道が分岐している。

村役人の家は間口が広く宿場の中心部にあるが、次第に屋敷の細分化が進み1822年(文政5年)には112軒になった。

晩年、ふるさとに帰った一茶は間口九間の家を弟と半分に分けて住んだが、1827年(文政10年)閏6月1日の大火により83軒、土蔵25軒が焼失し、一茶の家も類焼した。

一茶は焼け残った土蔵に移り住み、11月19日、65年の生涯を閉じた。

一茶記念館では、焼失前の文化文政期の柏原宿を復元している。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020  我と来て 遊べや親の ない雀 「小林一茶と信濃町」
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/29198092



京都 貴船神社本宮 参道                       編集局イメージ


貴船神社について

貴船神社は、神武天皇の母、玉依姫命が「黄船」に乗り、大阪湾から淀川・鴨川を遡り、源流である貴船川の上流に至り、この地に祠を建て水神を奉ったという創建伝説が伝えられています。

天武天皇の御代・白鳳6年(677)にはすでに御社殿が造られていたという、京都でも屈指の歴史を誇る神社です。


京都 貴船川床「兵衛」                        編集局イメージ


清流・貴船川は鴨川の源流にあたり、また御所の真北に鎮座することから、京都の水源を守る神として歴代朝廷からも大切にされてきました。


和泉式部

「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」


ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~色とりどりの短冊に願いを~ 京都 貴船神社にて七夕笹飾り(ライトアップ)を開催中!
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ZIPANG-8 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見その1. 全世界との情報の共有化その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重!その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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