令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
一般社団法人ツーリズムとよた(会長:太田 稔彦)は、小原交流館で開催される城郭考古学者 千田嘉博教授の歴史講演会(主催:豊田市)にあわせて、千田教授の解説を聞きながら市場城跡を歩くバスツアーを以下のとおり企画します。
テレビ番組など様々なメディアでも活躍されており、歴史遺産を誰にでもわかりやすく、臨場感あふれる解説が千田教授の魅力。今回のバスツアーで体験できる、千田教授の解説を聞きながらの城跡巡りは、参加者のみのプレミアム体験!!
さらに千田教授の講演会聴講もあり、歴史好きには見逃せない企画です。ぜひご参加ください。
【ツアーのポイント】
(1) 講演会の前に、千田嘉博教授の解説を聞きながら市場城跡を歩くツアー
(2) 市場城の地元小原地区の特産品が盛り込まれたランチもご用意
(3) テーマ「市場城の歴史的意義」講演会も会場前方席をご用意
(4) 当日限定の御城印付
市場城・本丸跡
市場城・曲輪の石垣
市場城跡 空撮
苔むした石垣が武士の時代を語る地区最大の城館あと。室町時代から安土桃山時代にかけて、鱸氏4代の居城跡で、標高380メートルの山頂に見られる遺構は、1583年鱸越中守重愛により改修された城郭です。
【バスツアー・開催概要】
ツアー名: 千田嘉博教授と歩く市場城跡見学バスツアー
日時 : 令和6年3月10日(日) 午前9時00分~午後5時30分(日帰り)
集合場所: 名鉄トヨタホテル前(名鉄「豊田市駅」より徒歩1分)
参加費 : お1人様 9,900円(大人・小人同額)
内容 : 往復バス、市場城跡の見学、地元小原地区の昼食、
講演会聴講、限定御城印付
ツアー行程
名鉄トヨタホテル前【9:00発】---🚌---市場城跡【約90分】---🚌---レストランにて地元名物の昼食【約60分】---🚌---講演会【約2時間】---🚌---名鉄トヨタホテル【17:30着】
定員 : 45名(最少催行人員10名)
申込先 : 株式会社中央トラベル
※Eメール( chuo-toyota@m6.dion.ne.jp )での抽選受付
※2月8日(木)10時より受付開始、2月15日(木)17時締切り
件名は「千田教授バスツアー抽選申込」として、
①参加者全員のお名前と参加人数 ②代表者電話番号
③郵便番号・住所 ④性別 ⑤年齢 ⑥Eメールアドレス
を上記アドレスまで送信ください
抽選結果は、株式会社中央トラベルよりご連絡いたします。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事ご覧ください。
上野天神祭 先頭の楼車の後ろに印(ホコ型)が見える
400年あまりの歴史を有する「上野天神祭」
この祭りは藤堂氏が藩主の時代、神輿の渡御を主とする祭りに印や囃子屋台などの渡物が加わり、「印と鬼・楼車」で構成される練物の祭りに発展しました。
百数十体もの鬼が練り歩く鬼行列は、神輿の渡御に供奉してその露払いの役割を果たし、中でも「役行者」の面は、初代藩主藤堂高虎が自身の眼病平癒の祈祷を城下の修験道寺院に命じた際に早く平癒したことから返礼として寄進したものといわれている。
この祭りの最大の特徴は、神の依代である印にそれを囃す楼車などの華やかな演出が加わって一対となっている点にある。
「上野天神祭のダンジリ行事」は、平成14年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されたほか、平成28年11月にはユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されました。
全国の多くの祭りと同じく豊作への感謝・疫病退散の祈願から始まった祭りは、京都の祇園祭の形態を取り入れて発展し、今日の伊賀地方の秋の風物詩となっている。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「印と鬼・楼車 上野天神祭のダンジリ行事 『ユネスコ無形文化遺産登録』10月に忍者の里 伊賀市で開催」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3014307
伊賀忍者「忍び」
伊賀とは
伊賀は、伊賀流で知られる忍者の里。 忍術はこの地で発展し、伊賀忍者は日本全国で活躍しました。 街の中央には上野城の敷地を使った上野公園があり、伊賀流忍者博物館、上野城、だんじり会館など、主要な観光スポットが集まっている。
上野公園から歩いて巡れる範囲にも、観光スポットが点在している。 伊賀の中心市街地は、17世紀初めに整備された城下町で、昔は侍が住んでいました。 現在も100年以上前に作られた、歴史的な建築や昔ながらの街並みが残っている。
街の周辺部には田園地帯が広がり、周囲は深い山々に囲まれている。 周辺部には、赤目四十八滝や青山高原など、日本の自然を満喫できるスポットがある。 ※赤目四十八滝は、たくさんの滝を歩いて巡ることができる観光地で、忍者が修行した場所だとも言われている。
伊賀は周囲を山々に囲まれた盆地である。 盆地特有の気候で、夏はとても暑く、冬はとても寒くなる(雪はほとんど降りません)。 昼夜の気温差が大きいのも特徴で、この気温差が優れた牛肉や米、日本酒ができる要因である。
伊賀市の面積は558.23k㎡で、人口は約91,000人です。 お隣の名張市(人口約78,000人)とあわせて、古くから「伊賀国(いがのくに)」と呼ばれてきた。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3019963
伊賀忍者
伊賀流忍術発祥の地 【伊賀市・名張市】
忍術 忍者は、世界中で日本をイメージする国際語となっている。
映画、テレビそしてマンガでおなじみの「忍者」や「忍術」。超人的で神秘的なイメージの強い忍者は、空を飛んだり、消えたりと、まるで忍者がスーパーマンであるかのよう、あるいは忍術が格闘技であるかのように、間違って解釈されている。
戦乱の時代に必要とされ、発達した忍術は、武術や謀略、破壊工作なども当然含まれますが、心理学や呪術、占術を利用して人間の心理をあやつり、また薬学、医学、天文学など生きるための知識と、人間の能力を最大限に引き出す技術の集大成が本来の忍術なのです。
忍者、忍術とは 封建時代の日本では、戦乱が頻繁に起きていました。その当時、忍者は主に情報収集をおこなうスパイとして雇われ、敵対勢力の動きを察知するという任務を果たしていました。彼らはしばしば、敵を混乱させ、その勢力を低下させるという使命をも帯びていました。「忍者」とは、忍術を駆使してこれらの目的を達成する者たちに対する呼び名でした。
忍術では、武力を行使するのではなく、知力を使った戦術に重きが置かれる。 忍術のある分野においては、敵の心理状態をあやつるために、呪術や占術、心理学、そして超心理学に精通することが求められました。また別の分野においては、自然を熟知して任務を遂行しやすくするために、天文学や薬草などの知識が求められました。
特に、この地域では、呪術と火薬の知識に秀でていました。忍術とは、戦闘のみに限られたものではありませんでした。
歴史を通じて発展した忍術の流派はいろいろありましたが、その中でも伊賀流(三重県伊賀市・名張市)と甲賀流(滋賀県甲賀市)の忍術は、その起源が同じで、もっとも優れた忍術といわれている。
忍術の歴史
忍術の歴史は、紀元前4000年頃に古代インド文化が中国大陸に伝えられ、そして西暦6世紀頃に、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「兵法」に求められる。大陸的な兵法は日本で山岳的な兵法へと発展し、今日知られるような忍術が完成しました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本初!伊賀忍者が活躍した城郭を巡るスタンプラリー 是非ご参加を!(弐の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3054326
滋賀県彦根市「永福寺」 伊賀者のアジトであったと言われている・・・
全国にいくつか「伊賀町」がある。滋賀県彦根市にも、昭和47年まで「伊賀町」があった。現在は錦町になっている。
慶長19年(1614)大坂冬の陣で、彦根藩士三浦右衛門元貞は伊賀者を特別隊として真田幸村の大坂城真田丸に奇襲攻撃。これが大成功する。井伊直孝は元貞に感状を与えた。
しかし、伊賀者には、その活躍に見合う論功行賞を与えなかった。そのため、伊賀に帰還する伊賀者が続出した。忍者なしでは戦えない。そこで、元貞はわざわざ名張下比奈知にある永福寺に赴き、彼らを説得しに行った。
給与をアップ、土地を譲与。新たに長福寺を創建し、永福寺僧、能賢を初代住職に迎え、本尊薬師如来も設置する。
これで気をよくした伊賀者は彦根に移住する。ただ、なぜ永福寺に伊賀者と大きく関わっていたのであろうか。この寺は伊賀者のアジトであった可能性がある。
忍者たちから忍者の祖として崇められていた「役行者」
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅠ (参の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3058458
「俳聖殿」
俳句を芸術にまで高めた俳聖 松尾芭蕉は 伊賀で生まれ、29歳までこの地で暮らしました。
日本遺産「伊賀忍者」
忍者の呼び方
今は「忍者(NINJA)」の呼び方で統一されていますが、昔は忍者と呼ばなかったのをご存じですか?時代によっても、地域によっても違う呼び方がたくさんありました。
その一部を紹介しましょう。
時代別
飛鳥時代—志能便(しのび) 奈良時代—伺見(うかみ) 戦国時代—間者(かんじゃ)・乱破(らっぱ) 江戸時代—隠密(おんみつ) 大正時代—忍術者・忍者(にんしゃ)
地域別
京都・奈良—水破(すっぱ)・伺見(うかみ)・奪口(だっこう) 山梨—透破(すっぱ)・透波(すっぱ)・三ツの者・出抜(すっぱ) 新潟・富山—軒猿・間士・聞者役(ききものやく) 宮城—黒はばき 青森—早道の者・陰術(しのび) 神奈川—草・物見・乱破(らっぱ) 福井—隠忍術(しのび)
他にも地域によって様々な呼び名がありますが、代表的なものを紹介しました。 当て字ですが「しのび(忍)」に関係するもの、仕事に関係する呼び方(聞者役など)、見たままの呼び方(早道の者など)色々あります。
さて、それでは前回の続き「伊賀忍者の史跡」を紹介いたしましょう。
史跡
極楽寺
鎌倉時代に道観という長者が一ノ井に住んでいた。道観は赤目の九か村を支配し栄華を極める。しかし、没落し奥山里香落渓に移り住む。
やがて、自分の不徳を悔い改め、東大寺二月堂の再建に寄与。道観遺言により松明調進が始まった。
この頃に悪党が出現する。中でも南伊賀の悪党、黒田の悪党と呼ばれ有名だ。伊賀忍者の原形になる。ゲリラ的戦術が巧妙で、いくら弾圧されても次々に現れる。活動期間も長く、対処に東大寺は手をやいた。
しかし、赤目の悪党たちも、松明調進ついては、荘園時代から続く行事で、強制されたもでなく、松明調進には従ったという。まともに戦えば明らかに不利である。
悪党は最低限の生きるためのとき、東大寺と戦う。それ以上は望まなった。だからこそ、東大寺という最大の寺院に、しぶとく数百年にもわたり対峙できたのだろう。生きるための忍者的哲学だと思う。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「戦国時代の陰の主役 日本遺産 伊賀忍者の史跡 そのⅡ(最終話 四の巻)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3067975
伊賀の国の一宮 敢国神社 朱鳥居
獅子神楽の原型 敢國神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)
敢國神社の御由緒
古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。
創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。
徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。
敢國神社の略史
敢國神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と敢國神社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。
創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。
又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。
伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。
当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。
創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。
結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比咩命(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。
観阿弥の故郷「伊賀」 上野城薪能
ZIPANG TOKIO 2020「伊賀一宮 敢國神社 1300年以上前『四道将軍』から始まり 観阿弥~服部半蔵~松尾芭蕉 そして神の社は未来を開く」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2331520
※現在、2200件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。
ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/
ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/
ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/
ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/
ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/
ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/
ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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