令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた
皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、
弥生時代(紀元前4~500年から紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、
日本海を通じて様々な交流が行われていました。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
石州瓦 島根県江津市「来待(きまち)色」とも呼ばれる赤瓦
石州瓦
起源は、古代中国 今から2500年前の春秋戦国時代
現在判っている瓦の起源は、春秋戦国時代の古代中国にまで遡ります。時の思想家、墨子の書物に、瓦葺きの家を示す「瓦屋」という文字が記されており、およそ2500年前という長い歴史を持つことになるわけです。
「瓦(グワ)」という中国語は“粘土を焼いたもの”の総称。かまどの周囲の土が燃焼して固く強くなっていることを発見した古代中国の人々は、住居の壁や床といった強度を必要とする部分に粘土を塗り、直接火で焼き固めていました。やがてこれが瓦という建築材料へ進化していったのでしょう。
呪術的な装飾として発展した瓦
中国における瓦の歴史の中で特筆すべきは、風水害から住居を守り保護する機能面だけでなく、呪術的な意味合いを込めた装飾性を持っていたことです。
古代中国の遺跡から出土している瓦には、樹木や鳥獣を配したものや、青龍、朱雀、玄武、白虎といった東西南北を守護する聖獣を紋刻したもの、「長生無極」「千秋万歳」などめでたい文字を刻印したものが多く見受けられます。
瓦は飛鳥時代、仏教とともに伝来しましたが、この時呪術的装飾性も同時に移入されます。いわゆる鬼瓦です。それは鯱(しゃち)、帆立、立浪、大国様、鳩など実に多彩で、日本的デザインに昇華されたものになりました。
シルクロードを伝わって生れた釉薬瓦
中国も漢の時代になると、ペルシャ湾からシルクロードを経て釉薬技術が伝わります。釉薬によって瓦や土器の強度や耐蝕性が飛躍的に高まることになります。隋や唐の時代になると、さらに耐久性の高い釉薬が製造されるようになります。この時代日本は飛鳥時代、ようやく瓦が伝来した頃です。
ちなみにヨーロッパでは、約2000年前の古代ローマ時代につくられた瓦が発見されています。古代ギリシャやアテネ文明の最盛期に建てられたパルテノン神殿からは、大理石の瓦が発見されています。
紀元前のヨーロッパ古典建築においても、瓦という建築材料は、すでに一般化していたようです。
瓦の伝来 今から1,400年前の話
日本書紀に曰く・・・
『崇俊天皇元年(588年)、百済国より瓦工四人渡来す・・・。瓦窯作工、生瓦作工、瓦焼き作工、瓦葺き工四名の瓦博士である・・・。』 遣隋使などによって中国大陸から日本への文化移入が盛んになった6世紀頃、仏教とともに、さまざまな文化・技術が朝鮮半島を経由して渡来してきました。
588年に日本初の寺院飛鳥寺(現、元興寺)建設
四名の瓦工は、日本ではじめての仏舎利建設のため、木工や画工といった多くの技術者たちとともに渡来したのです。 こうして588年に日本初の寺院588年に日本初の寺院飛鳥寺(現、元興寺)が建設されるのですが、その屋根はもちろん瓦でなくてはなりませんでした。
さらに607年には国内の瓦工による国産瓦で葺いた法隆寺が完成、以降は日本独自の瓦文化がスタートしていきます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020〜石州瓦物語(その1)~
「瓦の起源は、古代中国 今から2500年前の春秋戦国時代」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5322543
呪術的な装飾として発展した瓦
中国における瓦の歴史の中で特筆すべきは、風水害から住居を守り保護する機能面だけでなく、呪術的な意味合いを込めた装飾性を持っていたことです。
石州瓦「鬼面(きめん)」家の厄除け・魔除け。家を守ってくれる鬼瓦(株)シバオ施工例
瓦は飛鳥時代、仏教とともに伝来しましたが、この時呪術的装飾性も同時に移入されます。いわゆる鬼瓦です。それは鯱(しゃち)、帆立、立浪、大国様、鳩など実に多彩で、日本的デザインに昇華されたものになりました。
鬼瓦は、西洋文化の影響を大きく受けているようです。 そのルーツは、現在のシリアにある世界遺産でローマ帝国支配時の都市遺跡である『パルミラ』の入口の上にメドゥーサを厄除けとして設置していた文化が、シルクロード経由で中国に伝来したということのようです。
日本の鬼瓦の歴史としては、およそ1400年前の飛鳥時代の奈良県法隆寺、若草伽藍(がらん)跡から発掘された蓮華紋鬼瓦といわれています。当時の鬼瓦は鬼の顔ではなく、蓮の華の形をしたものでした。同じような瓦が朝鮮半島でも見つかっていることから、朝鮮半島から伝来したと言われています。
日本での鬼瓦のもつ意味は、ルーツと同じで厄除け・魔除けです。
七福神(大黒様):豊かさと幸福の願いを込めて
但し、鬼瓦には、厄や魔を払ってくれるように恐ろしい形相で睨み付けている様な鬼面(きめん)の鬼瓦だけでなく、縁起よく、家が代々栄えるように願いが込められた「七福神」や「打出の小槌」などをあしらった鬼瓦も多く屋根に飾られてきました。
屋根自体は、風雨などから家(建物)を守る大切な場所。
また、厄除け、魔除けや家内安全、健康長寿など、家(家族)を守る願いを込めた鬼瓦を屋根の棟端に飾らてはどうでしょうか。(株)シバオには、鬼師(鬼瓦を作る職人)が居て、ご依頼者の願いを受けて、心のこもった鬼瓦を作り続けています。
釉薬瓦の登場
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~ 石州瓦物語(その2)~
「瓦のルーツを探る 日本での鬼瓦のもつ意味は、ルーツと同じで厄除け・魔除けです。」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5325788
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
屋根は石州瓦で葺いてある出雲大社前駅 壁の色はマリアテレジアイエローかな?
この屋根が石州瓦とは驚きです!20世紀末ウィーンに華開いたユーゲントシュティール(世紀末芸術)鉄道の駅舎等を設計した建築家オットー・ワグナーや、グエル公園設計のため破砕タイルの施工法を考案したバルセロナのモデルニスモの建築家アントニオ・ガウディも生きておれば、その技術にきっとビックリするに違いない⁉
日本各地に残る城下町の瓦の殆どはいぶし瓦ですが、そのいぶし瓦が日本に登場するのは、安土・桃山時代です。
国宝 松江城
松江城は、松江市街の中心部、亀田山に築かれた平山城である。
慶長5年(1600)に出雲・隠岐の領主となった堀尾氏が、同12年より築城を開始し、
同16年にほぼ完成した。現在の天守はこの時につくられたものです。
外観は四重、内部五階、地下一階の形式で、正面の南面には玄関となる附櫓を設け、屋根はすべて本瓦葺です。軸部は長さ二階分の通し柱を多用しており、周囲に包板)を釘や鎹、帯鉄で取り付けた柱も多数見られます。部材の番付は二種類に大別され、二階以下に用いられた分銅紋に「富」の字を刻む部材は、安来市にあった富田城の部材と思われます。
松江城天守は、中国地方に唯一残る荘重雄大な四重五階の天守になっています。最近になって再発見された二枚の祈祷札から、慶長16年(1611)の完成が明らかとなりました。
通し柱による構法などの独自の建築的特徴を有し、近世城郭最盛期を代表する建築として極めて高い価値があります。防御性を重視した中世山城から、高層化して近世都市の基軸へと進展してきた我が国の城郭文化の様態をあらわしており、深い文化史的意義がある城です。
宮殿ホテル 川久…中国北京の紫禁城と同じ、老中黄の瑠璃瓦
南紀 ホテル川久
紺碧の海を望む、宮殿ホテル 川久は世界各国の一流職人による匠の技を 集結して造られた“夢の城”。 伝統技術が今に息づく、色あせない建築美は1993年、 優れた建造物に授与される「村野藤吾賞」を受賞しています。
老中黄の瑠璃瓦
中国北京の紫禁城と同じ、目にも鮮やかな老中黄の瑠璃瓦。かつて皇帝以外使うことが許されなかった瓦が、長い歴史上唯一、ホテル川久に47万枚使われています。
城壁を飾る煉瓦
イギリスIBSTOK社製の煉瓦でデザインされた城壁。73種類140万個、形状様々な煉瓦の組みあわせで巧妙な模様を作り出しています。
和歌山県西牟婁郡白浜町3745 電話:0739-42-3322
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020〜石州瓦物語 (その3)~
「日本各地に残る城下町の瓦の殆どはいぶし瓦」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5350198
次回へ続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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