令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた
皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から紀元後300年くらい)は
日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
松江のシンボル松江城は全国で現存する12天守のうち、国宝の一つで唯一の正統天守閣ともいわれています。
国宝 松江城の正統天守閣
国宝 松江城の歴史
歴代藩主
堀尾吉春 慶長5年(1600)~寛永10年(1633)24万石
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の後、出雲・隠岐両国を拝領した子の忠氏と共に、遠江国浜松(静岡県)から月山富田城(広瀬)に入ったが、松江の将来性に着目して城地を移しました。豊臣秀吉、徳川家康と二人の天下人に仕え、豊臣政権下では三中老の一人として功績を残しています。
城普請の名人であり、孫の忠晴を助け松江城と城下町を建設し、現在の松江市の礎を築きました。
松江城下町
城の南東にあたる大手門の前の殿町や母衣町には、禄高1000石以上の重臣の屋敷を含んで、500石以上の上級家臣の屋敷が並んでいます。
外堀の北、東、南でコの字形を囲むように町屋が並び、北堀には重臣の下屋敷、100~300石の中級武士の屋敷が、西堀の外側には150石以下クラスの武家屋敷が建てられていたようです。今日、武家屋敷通りとして多くの観光客を集めるのは北掘の武家屋敷群。北堀の武家屋敷のさらに北側にある町並みは町屋通りで、武家の暮らしを支えるための商人や職人が住んでいたものと思われます。
城の南、京橋川を隔て宍道湖に面する町末次は商工業の居住地で、末次町、芋町、片原町、紙屋町、鍛冶町、材木町、本町、魚町、茶町などがあります。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
石州瓦の施工事例
「石州瓦」備前色混ぜ葺き 丸惣施工例
銀の島「日本」
時は16世紀、日本は戦国乱世、世界はいよいよ大航海時代へ突入する大きな過渡期。日本は「プラタレアス=銀の島」という名前で知られていました。
当時日本で産出される銀の量は、世界の銀流通量の1/3を占めるほどでした。
そしてその大半は石見銀山で採掘される銀だったのです。
江戸時代の初め、人口20万人を集め、世界最大の産出量を誇った幕府天領地石見銀山大森の町。当時天才と呼称され徳川家康からも賞賛された稀代の山師安原伝兵衛は『お山の繁盛おびただしく、私が召し使う者1000人余。全国から集まりたる者共20万人。谷には銀鉱脈が充満し、昼夜を問わずにぎやかなる様は京や堺と異なることなし』と書き記しています。
石見銀山大森の町は、銀山開発の前線基地。当時の戸数は2万6千余り、寺院100ヶ寺、家は家の上に重なり、軒は軒の下に連なり、大森の町は端から山の上まで軒下づたいに歩けたといわれます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~石州瓦物語(その4)~
「石州瓦が200年に渡って守り続けている町並み石見銀山『大森町』」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5363971
世界遺産 石見銀山・大森町の眺め
石見銀山 大森町遠景
かって日本に繁栄をもたらした世界文化遺産「石見銀山・大森町」夢は再び蘇る!
東西に長い島根県のちょうど真ん中に位置する大田市は、古来、石見と出雲を結ぶ交通の要衝として大切な位置を占めてきました。
戦国時代に石見銀山が開発されるとその重要性はいっそう高まり、町場が形成され商人・職人の町として発展してきました。室町時代末期から鍬市・竹市が立ち、稲荷神社には稲荷市が立ち、今も100を越す露天商で賑わう春と秋の彼岸市は、多くの買物客で賑わいます。
また、大田市街地の北東、日本海の海岸線に面した波根は、美しい景観と潮騒が誘う江戸時代からの港町。 かねてより海辺の行楽地として親しまれ、新鮮な魚介を使った郷土料理「へか焼き(魚介版すき焼き)」、海鮮バーベキューなどを味わうことができます。
信仰心に厚い「石見銀山・大森町」町を守る石州瓦の家並み。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
石見銀山「羅漢寺橋」 四季の彩を魅せる石橋、まさか銀の橋⁉
「五百羅漢」は夢の橋を渡り現地で是非ご覧ください!春夏秋冬どの季節もお勧めです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~ 石州瓦物語(その5)~
「石見銀山・大森町それは黄金の国、ZIPANG語源の始まり、日本国の代名詞であった!」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5378883
8代将軍 徳川吉宗の瓦葺き奨励策
瓦屋根は江戸が栄えた寛永年間(1624~1643年)、町家に相当多くなったと言われますが、高価なため一部階級での使用に限られていました。
『瓦は高価なもの。贅沢はいけない。』という禁止令が出されたこともあったようです。
ところが、享保5年(1720年)一転して瓦葺きが奨励されるようになります。
徳川幕府は、10年年賦の拝借金制度を武士だけでなく、一般庶民にまで運用し瓦葺きを奨励した時の将軍吉宗は、瓦葺きの屋根を防火、類焼を防ぐ切り札として考え、江戸の町を初め多くの城下町の防火対策を進めたのです。
ちなみに町火消し「いろは48組」が生まれたのも、竜怒水という消防ポンプ、さらには町の要所要所に類焼を防ぐ空き地や樹木地帯を設けたのも吉宗、江戸町奉行大岡越前守に差配させています。
大岡越前守は、町人の話をよく聞き町人のための政策を進めていったそうです。
紀州藩5代藩主で、のちに江戸幕府8代将軍となった徳川吉宗の肖像。
近代に描かれたものと思われます。吉宗は貞享元年(1684)に和歌山城下で生まれ、宝永2年(1705)紀州藩主となりました。享保元年(1716)には将軍となり、幕府の政治改革を行ないました。
増加する瓦製造業 江戸後期
瓦葺きの奨励策、桟瓦の発明による瓦施工費のコストダウンなどによって、瓦葺き工事は増加の一途をたどります。
当然のことに、瓦製造業者も増加します。江戸も後期の頃です。 ちなみに、当時、江戸、京、大坂の町家は殆どが瓦葺きになっていますが、京はもっぱら桟瓦葺き、大坂は本葺きと地域性が現れています。
多様化する瓦の生産 登り窯の釉薬瓦 だるま窯のいぶし瓦
江戸時代も後期になると、いぶし瓦がだるま窯で生産される一方で、登り窯による釉薬瓦の生産が、主に日本海沿岸で始まります。
いずれも耐寒性に優れた、赤褐色の瓦という特徴をうたい文句にしていました。 石州瓦もその一つですが、耐寒性の高い釉薬瓦が日本海沿岸に広まるきっかけの一つに石州瓦の存在があったとする説もあります。
全国に点在する粘土瓦の産地。現在24箇所!
江戸時代に考案された施工費が安くあがる桟瓦が、全国に普及するのは明治に入ってからのこと。原料となる粘土に恵まれ、交通の便のよい地域に瓦造りが育っていきます。
現在(平成24年12月)は全国24箇所で、いぶし瓦や釉薬瓦が生産されていますが、中でも愛知県の三州瓦、島根県の石州瓦、兵庫県の淡路瓦は日本三大産地といわれ、三地域の生産シェアは80%以上になっています。
愛知県の三州瓦、島根県の石州瓦、兵庫県の淡路瓦は日本三大産地といわれています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~ 石州瓦物語(その6)~
「8代将軍徳川吉宗の瓦葺奨励策 ~ 江戸南町奉行大岡越前守活躍あり~」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5397811
次回へ続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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