令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた
皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、
弥生時代(紀元前4~500年から紀元後300年くらい)は、日本海側が『表日本』であり、
日本海を通じて様々な交流が行われていました。
『石州モノは、凍てに強く、水を通さない。』『とにかく固くて丈夫な瓦』瓦職人の間で、昔から語り継がれてきた言葉です。
紅がら格子窓越しに…石見銀山のある大森町は石州瓦の伝統の町・・・
石見銀山のある大森町…石州赤瓦と茅葺の群言堂鄙舎(ひなや)
棚田の緑と石州瓦の赤…さてさて、どんな効果があるのかな⁉
石州瓦「津和野と単線のSL」いつだったか?昔々、乗車した記憶が、懐かしい風景……
ヨーロッパの終着駅には哀愁があり、日本の単線には何かほっとする温かさがありますね…
現在日本三大産地の一つに数えられ、生産シェア第2位の石州瓦。
その物語を進めたいと思います。
石州瓦は、その瓦伝来の系譜のなか、江戸時代の初期、全国各地で展開された城下町建設ラッシュの中、島根県西部の石見藩の城「浜田城天守閣」に葺かれたことから始まりました。
1619年、大坂の瓦師甚太郎が招かれ、浜田城の屋根を瓦で葺きあげました。
甚太郎は、瓦の製造から施工まで一貫して指導にあたったといわれています。
しかしながら、その時作られた瓦は、おそらくいぶし瓦であり、赤瓦で代表される釉薬瓦ではなかったかと考えられます。
浜田城跡 天守閣と瓦を想像してみて下さい・・・また、もしあなたが織田信長&光秀なら
どうする天守閣⁇
アーカイブ
(1)瓦の伝来 今から千四百年前
日本書紀に曰く・・・
『崇俊天皇元年(588年)、百済国より瓦工四人渡来す・・・。瓦窯作工、生瓦作工、瓦焼き作工、瓦葺き工四名の瓦博士である・・・。』
(2)釉薬瓦の登場
釉薬瓦は、767年、平城京の東院玉殿の瑠璃瓦が初めてと言われていますが、これは鮮やかな古瓦の出土や、緑釉、三彩釉、灰釉などの瓦窯跡の発掘で裏付けられています。
(3)いぶし瓦の誕生
日本各地に残る城下町の瓦の殆どはいぶし瓦ですが、そのいぶし瓦が日本に登場するのは、安土・桃山時代。中国は明国の一観という人物がもたらしたと言われています。一観は織田信長の命により、初めて天守閣を持った平城安土城の粘土瓦を製造していますが、この時に粘土瓦を燻す製造法と、木型と粘土の間に雲母粉をふって脱型しやすくする工夫を伝えたようです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~石州瓦物語(その7) ~
「日本三大産地の一つ『石州瓦』のルーツとは・・・」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5404528
島根県とは・・・
“島根”は、「古代」「中世」「近世」の日本の歴史がすべて入った“歴史の缶詰”とも言える
全国でも特異な地域です。
出雲市「弥生の森博物館」 西谷2号墓(西谷墳墓郡)
“島根”では、そのことを物語るたくさんの証拠が出土しています。 出雲市の「西谷墳丘墓」の葬祭の遺跡からは、「北陸系」や「吉備」の土器が出土し、棺の下に敷き詰められた「水銀朱」 は朝鮮半島を経由した中国産であることも解っています。
また「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」から出土した大量の青銅器(銅剣、銅鐸、銅矛)や、出雲大社近くの遺跡から出土した銅戈や翡翠の勾玉などは、日本海を通じて「北九州」や「北陸(越)」との交流があったことを 示唆しています。
正しく『古代出雲』は、日本海交流の中核的な存在だったと想像できます。 中世(戦国時代)の“島根”は、日本のみならず世界の歴史に大きな影響を与える存在でした。
石見銀山には「龍源寺間歩」はじめ、大久保間歩、釜屋間歩などがの間歩が存在します。
岩見銀山 石州赤瓦の大森町 町並み
石見銀山 大森町(群言堂 石見銀山本店)
石州瓦の建物が連なる石見銀山大森町の町並み。自動販売機のカバーまで古材で統一。
先駆的な町並み保存。住民と関係者の意識の高さが感じられます…
(群言堂 石見銀山本店近くにて)
15世紀末からの大航海時代に東南アジアへ進出を始めたポルトガル人は、「石見銀」を始めとする「日本銀」 を獲得することを目的として日本近海に来航し、種子島にたどり着きました。 そして、鉄砲を始めとした西洋文明が日本に伝わり、その後の日本史に大きな影響を与えることになりました。
「石見銀山」の支配権を求めては、大内氏、尼子氏、毛利氏などの戦国大名が激しい争奪戦を行い、関ヶ原の戦いの直後には徳川氏の直轄地となりました。
16世紀から17世紀にかけて世界の銀産出量のかなりを占めたと言われ、歴史上大きな影響力をはなった 「石見銀山」は、2007年に『世界遺産』に登録されました。
近世(江戸時代)の“島根”は、『茶の湯文化』が花開きます。 松江松平藩七代藩主・松平治郷(号:不昧)は茶人として知られ、自ら不昧(ふまい)流を興し、民衆でもできる「茶の湯」を広めます。また、「不昧公好み」と言われる和菓子も奨励し、現在に引き継がれています。
松平不昧公の好み「明々庵」(松江市)
明々庵は茶人として知られる松江藩七代藩主松平不昧公の好みによって、松江市殿町の有澤(ありさわ)家本邸に建てられ、不昧公もしばしば臨まれた席です。
一時は東京の松平伯邸に移されていましたが、その後松平家から郷国出雲に帰され、昭和3年菅田庵(かんでんあん)のある有澤山荘の向月亭(こうげつてい)に隣接した萩の台に建てられていました。大戦後、管理が行き届かず、荒廃していたのを、昭和41年、不昧公150年祭を機に現在の赤山の大地に移されました。
茅葺の厚い入母屋に不昧公筆の「明々庵」の額を掲げ、茶室の床の間は、五枚半の杉柾の小巾板をそぎ合わせた奥行きの浅い床で、また二畳台目の席は中柱もなく炉も向切りといった軽快なものとなっており、定石に頓着しない不昧公の好みの一端を伺うことができます。
「尾道自動車道」と「松江自動車道」が全線開通し、山陰・山陽が約2時間30分で結ばれ、一層アクセ スも便利になりました。
日本庭園「由志園」
「人の心となり相手を思いやること」創業者の教えを守る。日本庭園 由志園。
石橋と池泉中央に石燈籠を…。
「雌滝から池泉への流れに架かる石橋。家族への感謝の気持ちを込めて、初代園主・門脇栄が造りました。愛する妻と娘の名前を一文字づつとって、梅恵橋と命名。」
来待釉薬という不思議
石州瓦の誕生。それは良質な陶土のほかにもう一つ、来待(きまち)という名の釉薬の存在が不可欠でした。来待釉薬は、おなじく島根県の東部出雲地方で採掘される来待石からとれるもので、耐火度が極めて高く、おなじく耐火度の高い都野津陶土とマッチすることで、高品質な石州瓦が生まれることになりました。
来待石の石切り場。青みがかった石であるが、空気に触れ次第に茶色に変化します。
来待石は、約1400万年前に形成された凝灰質砂岩で、来待町の埋蔵量は世界有数のもの、江戸時代から出雲石灯篭(国指定の伝統的工芸品)として全国に知られていました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~石州瓦物語(その8)〜
「石州瓦の誕生。それは良質な陶土とさらに『来待(きまち)石』という名の釉薬の存在にあり!」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5421758
石州瓦と北前船
現代、日本海側は『裏日本』とか『鄙(ひな)の国』などと言われていますが、遠い昔、弥生時代(紀元前4~500年から 紀元後300年くらい)は日本海側が『表日本』であり、日本海を通じて様々な交流が行われていました。
北前船が運んだ北海道江差町の姥神大神宮拝殿の石州瓦
北海道江差町の姥神大神宮拝殿の屋根は石州赤瓦で葺いてあります。
北海道江差町「姥神大神宮渡御祭」 やはり山車の先頭は神武天皇と天照大神の使い八咫烏
姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)
創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。
北前船航路で北上する石見の「はんど」と石州瓦
さて話を登り窯時代に戻します。凍てに強く丈夫で割れない水瓶(はんど)と石州瓦は、江戸時代の後期から明治にかけて、北前船によって日本海沿岸の地方に運ばれていきます。
はんどと石州瓦の集積地は江津の波子浦。北風をさえぎる大崎鼻の元小さな船着場を持つこの地は、江戸後期から明治・大正・昭和の戦前まで、石見焼きと石州瓦を全国に販売した問屋や大仲買人を輩出しました。最盛期には波子の仲買人の持ち舟は100隻を超えたといわれます。
江戸時代、この地は石見焼きや石州瓦だけでなくたたら事業、いわゆる和鉄の生産も盛んで、その輸送にも北前船や地元船が一役かっていました。
現在、その波子浦は、赤瓦の漁村集落の景観を見事に残しながら、今なお人々の暮らしの舞台となっています。
北前船
寛文12年(1672年)河村瑞賢によって開拓された日本海沿岸を結ぶ新輸送システム北前船は、春先大坂を立って瀬戸内海、下関から日本海を北上、江津の波子や石見銀山天領地の温泉津、出雲大社鷺浦、境港、福井の敦賀、三国、石川県の輪島、新潟の直江津、柏崎、両津、山形の酒田、秋田、能代、青森などに寄港して夏ごろに北海道の松前、江差、函館などの港に入ります。
帰路は、夏のうちに北海道を離れ、冬前までに大坂に帰る行程でした。
北前船の主荷物は、行きは米、古着、木綿、稲俵、帰りは鰊、昆布でしたが、途中の寄港地で地方の産物を仕入れたり、荷物を販売したりしながら、最終目的地を目指すもので、各寄港地では、回船問屋が成長し、おおいに繁盛したといいます。石見地方では、現在の大田市温泉津温泉が往時の面影を残す街並みとして伝統的建築群の指定をうけています。
石見地方では、現在の大田市温泉津温泉地区が往時の面影を残す街並みとして伝統的建築群の指定をうけています。
温泉津町温泉津地区
島根県のほぼ中央にある温泉津町温泉津地区は、中世から続く温泉のある港町で、石見銀山の外港として発展してきました。急峻な谷筋を切り拓いた町並みは近世の町割りをよく残し、江戸末期から昭和初期にかけて建てられた平入の町家を中心に温泉旅館、寺社建築など多様な伝統的建造物群が、岩盤を削った古道など周囲の環境と一体となった歴史的風致を形成しています。
北前船で運ばれた石見地方の産物は、石見焼き、石州瓦、和鉄など。出雲地方の銅、黒松、隠岐の干し鮑など。
いずれにしても北前船の一航海(往復)で1000両が儲かった(行きは300両、帰りは700両)と言われており、まさに宝船だったようです。
山を仰ぐ港と山に抱かれる港
北前船が寄港する港にはどんな特徴があったのでしょうか。立地から見ると大きく二つに分けられます。
一つは、山を借景として大きな川の河口に位置する「山を仰ぐ」港です。日本海から仰ぐ名山は、古くから航海の目印となり、その近くに港を築いています。これらの港は江戸時代には、上方への年貢米の積出港となり、領内の穀倉地帯を流れる大河の河口に米倉、番所などが整備されました。
江差町北前船
名山を仰ぎ大河に抱かれる港が、日本海を経由して北日本と上方を結ぶ西廻り航路の基盤となり、各地へとつながりました。そこでは、夕日に輝く雄大な自然と港が一体化する名画のような景色や、山から見下ろす美しい港のパノラマに出会うことができます。
もう一つは、山と海の間のわずかな平坦地に位置する「山に抱かれる」港です。一度の航海で巨万の富が得られる北前船が頻繁に行き交うようになると、風待ち港も含め多くの寄港地が整備されました。砂丘の多い日本海沿岸では、山と海に挟まれたわずかな平坦地を利用し、コンパクトな港や集落を築いています。古い建物や荷揚場、船止めの杭など、北前船によりもたらされた、文化遺産が集約された町並を歩いて回ることができます。
北前船が帆を上げて現代に残した文物交流
近江商人の雛飾り 東近江市「五個荘町」
勿論、近江商人のふるさと近江八幡、日野においてもお雛様には紅花を使用したひな人形が披露されて町の衆や観光客の眼を楽しませてくれます。
北前船は生活必需品に加え、雛人形などの高級品、そして様々な文化を運んでいます。天候に左右される北前船の航海は、「風待ち」という文化により、出港までの間、料亭や茶屋などでの一時の出会いと別れと共に、そこで唄われる民謡など各地の芸能が船乗りたちによって伝わっていきました。
代表的なのが、「おけさ」や「あいや節」などと呼ばれる哀調を帯びた節回しを持つ民謡です。この民謡は熊本で生まれた「ハイヤ節」が船乗りの間で歌い継がれ、北前船により日本海沿岸の港町に広まり、各地に根付いた芸能として親しまれています。
松前祇園ばやし
江差追分
-前 唄-
国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー
いくよねざめの 波まくら
朝なタなに聞こゆるものはネ~
友呼ぶかもめと 波の音
-本 唄-
かもめの なく音に ふと目をさまし あれが蝦夷地の 山かいな
-後 唄-
沖でかもめの なく声聞けばネ~
船乗り稼業は やめられぬ ~
江差追分は、一度聞いて惚れ、二度聞いて酔い、三度聞いて涙する~
と言われています。
和食を代表する「昆布だし」食文化も生まれました。北海道から京都や大阪に運ばれた物に昆布があります。この地で昆布は「昆布だし」に磨かれ、日本のだし文化として現代の和食の基本になっています。
他には凍結に強い石州瓦が運ばれたことにより、北国の防災力が向上し、綿の肥料となる鯡や古着が行き交うことにより、衣服の質が格段に良くなりました。北前船は日本人の衣・食・住の生活環境向上に大きな役割を果たしたのです。
石州瓦 加賀市加賀橋立
重要伝統的建造物群保存地区 加賀橋立は、江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落です。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しています。敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えています。
重要伝統的建造物群保存地区 石川県輪島市黒島町(石州瓦 )
重要伝統的建造物群保存地区 黒島町は、能登半島北西部の門前地域に位置しています。西は日本海に面し、砂浜から山裾に上る緩斜面に、街道に沿って南北に長く形成されています。
集落の成立は16世紀前半と伝え、江戸時代に入ると北前船の船主が現れ、日本海航路による海運業の発展を背景に集落は成長を遂げました。
保存地区は、北前船の船主や船員の居住地として発展した能登天領の集落であり、全盛期の頃の集落全域及びこれと関連する墓地等を含む。最も栄えた明治初期の地割を良好に残し、伝統的な主屋が敷地内の庭園や土蔵、社寺建築、石造物、樹木と共に歴史的風致を良く伝えています。
秋田「土崎港曳山まつり」毎年7月末頃に開催されます。
歴史の魅力を持つ町は数多くありますが、北前船の寄港地・船主集落は、立地や町のつくり、祭り・芸能や神社仏閣の雰囲気など、他の「歴史の息づく町」とはかなり違う趣を感じることができます。そこは、日本海の荒波を越え、人・物・文化を運んだ多くの男たちの夢が紡いだ歴史情緒に出会える異空間なのです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~ 石州瓦物語(その9)〜
「石州瓦と北前船の日本海側『表日本』の時代が再びきっとやってくる‼」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5458237
次回へ続く・・・
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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