ZIPANG-8 TOKIO 2020重要文化財の茶室「光華」で茶会体験をしてみませんか?【東京都庭園美術館】


令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた
皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


  ~重要文化財の茶室「光華」で茶会体験ができる~


東京都庭園美術館 茶室「光華」(重要文化財)          ©東京都庭園美術館


日本庭園内の茶室「光華」は、武者小路千家の茶人である中川砂村(是足庵 1880-1957)が設計し、大阪の数奇屋大工棟梁平田雅哉(1900-1980)が施工して、昭和11年(1936)に上棟しました。「光華」という名称は、朝香宮鳩彦殿下自らの命名で、扁額も殿下直筆のものと言われています。


茶席は小間、広間、立礼席の三席からなります。屋根は本体が桟瓦葺、庇が杮板を銅板で包んだ杮葺となっています。


東京都庭園美術館 茶室「光華」立礼席              ©東京都庭園美術館


立礼席は明治の初期に裏千家が外国人のために考案した椅子式点前の茶席で、戦後各流派家元の茶席に普及しましたが、戦前の茶室では珍しいと言えます。天井が高く、全体に明るく開放的な造りとなっているのが特徴で、アール・デコ様式の本館と合わせるかのように、施主である殿下の好みが反映されていると思われます。


平成27年(2015)には、本館等とともに国の重要文化財に指定され、平成28年(2016)に耐震補強を行いました。


東京都庭園美術館 本館 正面玄関                ©東京都庭園美術館


四季折々の風情で建物と調和する緑豊かな都心の庭園

都心にありながら緑豊かな当館の庭園には3つのエリアがあります。

朝香宮邸時代から引き継がれ、芝生が広がり開放感のある「芝庭」。

起伏に富んだ景観と茶室で和の情緒にあふれる「日本庭園」。

ベンチが配された寛ぎの空間で、春にはワシントン桜が楽しめる「西洋庭園」。

春夏秋冬それぞれ異なった表情でみなさまをお迎えいたします。


東京都庭園美術館 本館 ベランダ                ©東京都庭園美術館


朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した旧朝香宮邸は港区白金台に建てられています。
建築設計は宮内省内匠寮工務課の権藤要吉で、主要室の内装設計をフランス人のアンリ・ラパンが担当しました。本館は、鉄筋コンクリート造二階建(一部三階建)に造られています。


旧朝香宮邸本館の外観は装飾を排したシンプルな意匠となっているが、内部は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパとアメリカを中心に流行したモダンデザインの意匠に大きな影響を与えたアールデコ様式によるガラスのレリーフ、照明器具、壁画、彫刻などで装飾されています。当時として最新のフランス芸術作品を主要な部屋に配し、洗練されたアールデコ様式でまとめられています。


東京都庭園美術館の茶室「光華」で、
5月18日(土)に茶会体験「重文わかる茶会」を開催いたします。


東京都庭園美術館 茶会 重文茶室「光華」にて          ©東京都庭園美術館


「重文わかる茶会」は、講義と実技を交えた体験型のお茶会です。5月18日(土)の開催をもって、通算10回目となります。


東京都庭園美術館 茶会 重文茶室「光華」蹲での清め方体験    ©東京都庭園美術館


「茶会」と名が付くと敷居が高いように思われがちですが、実はとても楽しいものです。この茶会体験では、そもそも「茶会」とは?というレクチャーから、蹲(つくばい)での清め方、お菓子の食べ方などを説明付きで体験していただき、最後に躙口(にじりぐち)から小間に入って薄茶で一服していただきます。


茶会とはどのようなものなのか、そして茶会を行う茶室とはどのようなものなのかが「わかる」茶会です。新緑が清々しい季節、是非ご参加をお待ちしております。


※5月18日(土)は、展覧会準備期間中のため本館・新館には入れません。あらかじめご了承ください。【事前申込制・有料】

開催日時

2024年5月18日(土)

※各席とも60~70分ほどです。

・第1席 10:30~

・第2席 12:30~

・第3席 14:00~

・第4席 15:30~

場所 東京都庭園美術館 茶室「光華」(重要文化財)


講師

沼尻 宗真(茶道家・陶芸家)

海老澤 宗香(茶道家・裏千家)

定員 各席8名

※各席とも定員を超過した場合は抽選


参加費

1名様 1,000円 

※薄茶と菓子代を含みます。

参加費とは別に、美術館への入場料(庭園入場料 一般200円)が必要です。

申込方法 下記申込フォームよりお申し込ください。1組2名までお申込みできます。

お申込みは1回のみとし、重複及び複数席へのお申し込みは無効とさせていただきます。

当落結果 申込締切(4月28日)から5日以内に当落についてメールでお知らせします。メールが届かない場合は、下記にご連絡ください。

申込期間 2024年4月18日(木)10:00~ 4月28日(日)


注意事項

・参加は中学生以上とさせていただきます。

・当選通知後のお時間及び参加者の変更はできません。

・雨天の場合も開催いたします。

・ミニスカート、素足での参加はご遠慮ください。

・アクセサリー類は外してご参加ください。


内容

○茶会の基礎知識に関する講義(立礼席)

○蹲(つくばい)の使い方(露地)

※雨天時は広間の縁側にて沓脱石に手桶を置いて実習)

○菓子の食べ方(広間)

○躙口(にじりぐち)から小間に入って抹茶で一服(小間)

※雨天時は広間側から廊下伝いに小間に入室


【講師紹介】

沼尻 宗真


茶道家・陶芸家

茨城県つくば市出身

多治見工業高校 陶磁科学藝術科卒業

裏千家学園茶道専門学校卒業/優秀賞

■第12回「現代茶陶展」TOKI織部大賞受賞

土岐市収蔵

■第19回美濃陶芸庄六賞茶盌展「庄六賞」大賞受賞

多治見市美濃焼ミュージアム永年保存

■第39回美濃陶芸展「中日奨励賞」受賞

■2018年から東京都庭園美術館茶会体験講師


海老澤 宗香


茶道家

茨城県笠間市出身

武蔵野美術大学卒業

裏千家学園茶道専門学校卒業

京都の中村外二工務店を経て現在に至る

海老澤宗香茶道教室主宰

■2017.7 3回完結茶道のきほん講座

■2018.1 「いばらき工芸大全Ⅲ 染色の巻」茶会

NUNO 須藤玲子氏とのコラボレーション

■2018.5 「marimekko SPIRIT」茶会

■2018年から東京都庭園美術館茶会体験講師


お問合せ先

東京都庭園美術館 「重文わかる茶会」担当

Tel 03-3443-0201 Fax 03-3443-3228

E-mail:events@teien-art-museum.ne.jp



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

東京都庭園美術館 〒108-0071 東京都港区白金台5-21-9 電話:03-3443-0201

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。



尾張徳川家21代 徳川美術館館長 徳川義宣氏              Ⓒ鎹八咫烏


プロフィール

1933年東京生まれ。学習院大学政経学部経済学科卒。

東京大学農学部林学科、東京国立博物館に研究生として学ぶ。

財団法人徳川黎明会評議員、理事を経て、専務理事。

徳川美術館館長を務める。(昭和62年 現在)


主な著書

葉月物語絵巻(木耳社)

琉球漆工芸(荒川浩和氏共著 日本経済新聞社)

茶壷(淡交社)

新修 徳川家康文書の研究(徳川黎明会)ほか


尾張徳川家21代目にあたり 徳川美術館館長でもある、徳川義宣氏(以下徳川)を東京・目白にある財団法人徳川黎明会本部に訪ね、江戸時代の大名の美意識などについておたずねしました…本号はその中から特に徳川家康の考えた「わび茶と能」についてご紹介いたします。


昭和62年5月、(約40年前のお話です)

尾張徳川家21代当主 徳川美術館(前)館長 徳川義宜氏を訪ねたのは・・・


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏に聴く!徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』とは
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37067472/



圓覚山宗鏡(すきょう)寺(通称沢庵寺)の本堂に雪が降りました。
新米さんは早起きして道をつける。修行の厳しさが身に染みる季節です・・・


宗鏡寺の歴史

圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)は、 出石町東北、入佐山にあり、開山は京都五山の一つ東福寺の大道一以 (だいどう いちい) 禅師でした。

代々、出石城主の菩提寺でありました。


開基は1392年に、当時の出石城主で山名陸奥守氏清公によって、建てられました。寺名は氏清公の法名「宗鏡寺殿」を 以って名づけたと伝えられます。


当寺は、山陰唯一の伽藍を誇っていましたが、織田信長の但馬征伐で山名家が滅び、寺もまた荒廃したのです。


1616年、小出吉英の援助の元、沢庵和尚を招き、再興されました。

(沢庵和尚紫衣事件は1629)

以来、京都紫野大徳寺派の但馬における中本山として、現在に至ります。


本来、出石出身の沢庵は才に長けて京の都大徳寺でも精進して注目を浴びる存在でしたが、再び故郷へ呼び戻された訳ですね?


それ故、沢庵和尚は開山…寺院を開いた第一世住持。 開基…寺院を創建した人物…となりました。


沢庵和尚の故郷の寺であることから「沢庵寺」と呼ばれ、人々に愛されるのです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)と沢庵和尚の生い立ちとその風土…生活の美意識
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9808411



〜 紫衣 (しえ) 事件とは 〜

さて、先の~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内の記事では " 紫衣事件" に触れていましたよね?何事が起きたのでしょうか? 歴史的に僧衣の位階色を授けるしきたりは天皇即ち、朝廷側の詔において行われた由緒ある制度でしたが、時の政権、徳川幕府は禁中及び公家諸法度を定め、朝廷との関係を弱めるため、寺社への締め付けを厳しくしたのです。


特に、天皇家との所縁が深い大徳寺クラスの寺院に対しては、住持職の指名や紫衣の着用に関しても幕府が絶対的権限を持ち、幕府の許可した者に限るとしていたのです。


中でも大徳寺住持、沢庵宗彭和尚は書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ、また多くの墨跡を残すなど、文芸にも秀でた方で、多くの公家たちからの人気も高く、とりわけ後水尾天皇が深く帰依された名僧とされていました。そんな背景もあったのでしょう。


嘗ての栄華をた平安貴族たちは、鎌倉幕府以来の武家社会成立以降、皇族貴族階級は名あっても実なしの完全なる骨抜きで、支配階級の座を奪われたのです。


その権力の頂点に立った徳川幕府に至っては、怖いものなし! 長い年月を掛けて抑圧された皇族、貴族の幕府に対する確執たるものは如何ばかりだったことでしょうか? しかも、現代の皇室における叙勲制度の如き制度は、当時でも法衣の位階色を天皇から賜る栄誉感覚は特別なものがあった筈です。


それに抗議したのか朝廷側とご当人、沢庵和尚だったのです。その結果、出羽国への流罪が下されたのです。(沢庵は本来、無欲の人柄とあり、抗議した為の流配でした。それは幕府の天皇に対する不敬不遜の姿勢に憤り、自ら罪を覚悟して反論したものと解されます。)


沢庵を癒やした "春雨庵"


上山城主、土岐頼行公が茶道を深く嗜む沢庵和尚の慰めに草庵を寄贈しました。


春雨庵(山形県上山市)


それがこの、"春雨庵"(山形県上山市)です。


沢庵和尚ゆかりの"春雨庵" を是非、ご見学下さい。
大変、趣のあるユニークな茶庵の集合体を巡る、思いがけない楽しい体験になると思います。


時の上山城主・土岐頼行はこの絶望の淵にある遠来の賓客を慰めようとプレゼントしたのがこの "春雨庵" です。沢庵はここで3年間を過ごした後、許されて江戸に戻り、北品川に萬松山東海寺を開山しました。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 紫衣事件!  悲劇の主人公 ・ 沢庵和尚の人徳を偲ぶ秘話が面白い【寄稿文】日原もとこ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9784846



                沢庵寺 沢庵和尚


沢庵和尚

柳生宗矩・宮本武蔵の剣は心身鍛錬の師匠・沢庵禅法に依るものです。出石に生まれ、漬物の "たくあん漬" は自ら創作し、広めたものと伝えられています。


対来閣は4畳半のお茶室です。(お茶室内は下記の本文にてご覧ください。)


宗鏡寺には沢庵和尚が作られた「鶴亀の庭」や「心字の池」、和尚お手植えと言われています 「胡蝶わびすけ」、和尚の夢に出てきたとされる「夢見の鐘」等が現存しています。


また、48才から8年間過ごした「投淵軒」では数多くの和歌をつくり、書物をあらわしました。


昨夜は寝ぼけて夢でも見ていたのか⁉あと丁度半分と申し上げましたが、今朝確認してみると何とまだ三分の一も紹介できてなくて…まるで狐につままれたような気分でした・・・

それでは、前号に引き続き「宗鏡寺の境内」を、ご案内いたします。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 出石城下町の名刹圓覚山 宗鏡寺と宮本武蔵心の師 沢庵和尚(その2)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9835936



大徳寺 法堂 


大徳寺

京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山しました。


妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのであります。


鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列しました。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果であります。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていました。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いたのでした。


しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました。


至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっています。


このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとったのでした。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)といいます。


その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。


侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残っているのです。


このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られました。


享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失しましたが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けたのです。


江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復したのでした。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2011石余を有したのです。


この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったのですが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまいました。なんとか堂宇を維持するため明治11年(1878年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮、20寺を永続塔頭とする縮小を行う事で、寺運は栄え今日に至っています。


大徳寺 山門(金毛閣)


千利休が建てた金毛閣は、この楼上に利休の木像を置いたことから秀吉の逆鱗に触れ、利休切腹の要因になったことでも知られています。現在、利休の木像はご位牌と共に裏千家に祀られています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9733249/



隠岐の島 後醍醐天皇肖像


後醍醐天皇から「本朝無双之禅苑」と評された禅宗の名刹、大徳寺は大燈国師によって1326年に創建されました。 一休宗純や沢庵宗彭などの名僧を輩出したほか、千利休や狩野永徳など後世の日本文化に多大な影響を及ぼした人物たちが活躍した場でもあり、数多くの貴重な文化財を今に伝えます。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-7 TOKIO 2020京都・禅宗寺院 大徳寺本坊 伽藍2024年春特別公開並びに経蔵(重文)初公開!!大徳寺塔頭3寺院や、壬生狂言で有名な壬生寺など非公開文化財を特別公開
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/49748199



アールデコの生みの親の一人 ルネ・ラリック



ラリックについて

1888年にフランスで創業されたラリックは、“クリスタルガラス界のオートクチュール”と称される最高峰のメゾンです。「モダンジュエリーの生みの親」として知られるルネ・ラリック(René Lalique)は、ガラスを使った創作においても芸術の巨匠となりました。


時を経てその名前は唯一無二のサヴォワ・フェール(熟練技)を示すゆるぎない象徴となり、さらにラグジュアリー、卓越性、創造性、そして広く名高い芸術的なスタイルと同義となっています。 


創業者ルネ・ラリックが確立した、圧倒的な職人技術と比類のないクリエイティビティを現代に受け継ぐメゾン ラリックは、現在ではクリスタルの装飾品(デコラティブ)をはじめ、ジュエリー、インテリア、アート、ワイン、フレグランスの6つのカテゴリーを展開し、タイムレスな魅力を発信する「ライフスタイル メゾン」として進化を続けています。


ルネ・ラリックの歴史


ルネ・ラリック シャンゼリゼ・ショッピング・アーケードの噴水(1926年)飛騨高山美術館※に展示。アール・デコ期のガラス芸術作品として世界で唯一現存するガラスの噴水です。

※現在、飛騨高山美術館はリゾートトラストが管理運営しています。


-1860年ルネ・ラリック誕生-

フランスのシャンパーニュ地方マルヌ県アイ村で誕生した彼は、その数年後、一家でパリに移り住みましたが、休暇にはアイ村に戻る生活を送っていました。ルネ・ラリックの故郷に対する深い愛情は、生涯変わることはありませんでした。


-1885年パリに最初の工房を設立-

父親の死後、貴金属細工師のルイ・オーコックのもとに弟子入りし、パリの国立高等装飾美術学校で学んだ後、英国でさらに二年間、ジュエリー制作の技術を学びました。


1885年、ジャクタやカルティエ、ブシュロンといったジュエリーブランドに傑出したデザイナーであると認められたルネ・ラリックは、パリのプラス・ガイヨンにあった宝石職人ジュール・デスタープの工房を買い取ります。


-1888年古代の美術品とジャポニスムに
           インスパイアされた最初の装飾品-

ラリックはパリのキャトルセプトンブル通りに工房を設立し、革新的な素材を使用して制作したこの作品により、当時のジュエリー制作の伝統を打ち破りました。貴石をふんだんに使用した豪華絢爛な装飾スタイルが好まれていたため、独創性や個性は軽視されていました。素材を自身のデザインの中核に据え、素材の持つ力、光、色を重視した彼は、こうして、貴金属、宝石、半貴石、マザーオブパール、象牙、角、エナメル、ガラスなどを自在に組み合わせる技法を確立したのです。


1888年、ルネ・ラリックは"RL"のロゴを登録し、彼の名で制作されたオリジナルの作品にサインを刻みました。


-1890年ジュエリーからエナメル、ガラスへールネ・ラリックの手によるジュエリーは大評判となりました。

彼がパリのテレーズ通り20番地に3番目となる工房を開き、ガラスを使用した製品を発表しはじめたのもこの頃です。当時ラリックは、ジュエリーの素材として、エナメルやガラスを、ゴールド、オパール、パール、アメシストなどと同様に取り入れていました。


-1900年パリ万国博覧会-

ジュエラーとしての名声を確立したルネ・ラリックは、著名なセレブリティたちのためにジュエリーを制作するようになりました。彼が目指していたものは「誰も見たことのないジュエリー」であり、「モダンジュエリーの先駆者」と称賛されました。当時では革新的なデザインであったラリックのジュエリーは社交界の重鎮たちをも魅了し、同時代に活躍していた他の著名なジュエリー作家からも高い評価を受けました。さらに彼は各国の王室から依頼を受けるようになり、世界中の富裕層がこぞって彼の作品を収集するようになりました。


1900年、パリ万国博覧会に参加したラリックは、ジュエラーとして最盛期を迎えました。同年、ラリックはレジオン・ドヌール勲章の「オフィシエ」を受賞しました。


ダミアン・ハーストとコラボレーションしたアートピースを一挙に公開!
日本初公開の作品も・・・

LALIQUE x Damien Hirst《エターナル》コレクション


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ラリックが日本最大級のアート&デザインの祭典「DESIGNART TOKYO 2019」 に初参加
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/7060643



雅叙園の誕生


創業当初、百段階段は晴れやかな宴を楽しむ宴会場として使用されていました。
本展では「草丘の間」にて、大正ロマンの雰囲気に満ちた喫茶室が登場します。


花鳥画や緻密な細工の建具など美しい意匠に満ちた文化財と、本展の期間だけ室内に配したステンドグラスに囲まれながら、タイムスリップをしたような空間でお茶とお菓子をお愉しみください。


豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂

ホテル雅叙園東京の前身の目黒雅叙園のルーツは、創業者・細川力蔵が、東京 芝浦にあった自宅を改築した純日本式料亭「芝浦雅叙園」。


創業当時は、日本料理に加えて北京料理メインとし、お客様に本物の味を提供することにとことんこだわった高級料亭でした。


より多くの人々に本格的な料理を気軽に食べていただくため、1931年(昭和6年)庶民や家族連れのお客様が気軽に入れる料亭として目黒の地に誕生しました。


料理の味はもちろん、お客様に目でも楽しんでいただきたいと考え、芸術家たちに描かせた壁画や天井画、彫刻などで館内の装飾を施しました。


豪華絢爛な東洋一の美術の殿堂はこうして誕生し、2017年(平成29年)4月1日目黒雅叙園からホテル雅叙園東京へと施設名称を変更することとなりました 。


大衆文化が花開く華やかなりし時代を体感


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 雅叙園「大正ロマン×百段階段」大衆文化が花開く華やかなりし時代を体感
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/33701412



※現在、2300件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見その1. 全世界との情報の共有化その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重!その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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