ZIPANG-8 TOKIO 2020 ~日本の文化とマナーを学ぶ~美術館で茶道!~台湾で人気「日本の文化と礼法」ハワイへ躍進

令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、
能登半島地震で被害を受けた皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


日本の文化とマナーを学ぶ『Hawaii セミナー』を4月6日開催! 
~台北楊三郎美術館館長・ノリコマナーズ代表 村越のりこ氏~ 


           楊三郎美術館にてお点前 村越のりこ氏


               楊三郎美術館 外観 大門口


楊三郎美術館は新北市永和區博愛街にあり、1991年7月25日に台湾初の民間経営美術館として開館式典が催された。主に楊三郎の絵画が展示される。他園内には1919年創建の古跡「網溪別荘」やアトリエがあり、台湾の歴史的重要人物に関する貴重な品も多く所蔵されている。


            台湾 楊三郎美術館 館内 ギャラリー


            台湾 楊三郎美術館 館内 ギャラリー


            台湾 楊三郎美術館 館内ギャラリー


              楊三郎美術館 楊三郎アトリエ


美術館内で最もクリエティブな空間

1945年に創設したアトリエ。天井が高く採光が良いのは描くのに必要な設計であった。ここは楊三郎にとって絵画の創作にもっとも適した空間なだけでなく、当時の絵画の巨匠たちが周回する重要な場所でもあった。


                楊三郎美術館カフェ


                 楊三郎美術館カフェ


             豊かな緑の楊三郎美術館 庭園カフェ


               楊三郎美術館 庭園カフェ


楊三郎ミュージアムカフェ

都心とは思えない豊かな緑が目に飛び込んでくるカフェ、オリジナルの松花堂弁当やコーヒー、スイーツ、日本酒などご用意しています。美術館鑑賞や散策の合間にくつろぎのひとときをお過ごしください。


                  網渓別荘


楊仲佐古蹟室

敷地内には、1919年に創建し国に古跡指定された「網渓別荘」が建つ。旧永和市の初代市長も勤めた地元の名士である楊仲佐(別名:嘯霞、楊三郎の父)は生涯ここに住んでいた。父・仲佐は菊の花を愛する詩人であった一方、政治家としても優れた手腕をはっきし、多くの財界人と交流があった。楊家・当時の歴史を記録した資料を見ることができる。



~台湾での活躍~


国立台湾美術館にて職員の方々に礼儀マナーの講演を行う…
皆さん前向きに真剣にそして楽しく学ばれました❣


台北・楊三郎美術館の館長も務める村越のりこ氏は同館内以外にも、領事館でのイベントや2,000人以上が集まる国際ロータリークラブ総会などで「日本の伝統文化である茶道・礼法」を広めてきた。


一か国一度だけではなく、定着するように静かにひたむきに長い時間をかけて伝える和の心の実践。コロナ禍を経て、今春、満を持してハワイへ進出を決める。


外国の地で、敢えてその場その場に合った「日本文化」の楽しみ方を模索し、世界に通用する「心意気・マナー」を伝えてきた彼女の次なる目標とは? 情熱の源と縁を尋ねる。


〇マナーから「日本」を知る

村越のりこ氏が「マナー」と「日本文化」を意識するようになったのは20数年前にハーバード大学との仕事をしていた頃のことだったという。当時、親の仕事の関係もあり、昔から海外に縁の深いのりこ氏は、「株式会社のりこインターナショナル」を設立し、海外での仕事のコーディネートに奔走する日々だった。


中部国際空港 ラウンジ                       編集局イメージ


帰国の際、ラウンジで、使った椅子をきちんと戻す――そんな当たり前の仕草を、「日本人は素晴らしい」と通りすがりの英国紳士に誉められた。自分では当然の行動への感想に驚くと同時に、「海外に居れば、自分は個人としてではなく【日本人】として見られるのだ」という発見を得た。海外で活躍する日本人が多くはなかった時分であるから、余計に「日本人の代表」になりやすい状況だったと言える。


「礼儀をしっかりして、
日本人の印象をよくしたい。もっと礼儀やマナーを知りたい」


京都南座洛中洛外図 東京国立博物館蔵                編集局イメージ


帰国後すぐ、礼儀作法の教師をしている友人の母(日本礼儀作法協会所属)から教えを乞うことにした村越のりこ氏。基礎知識を増やしていくうちに、やがて興味は、日本食や歌舞伎など日本文化そのものの継承へも広がっていく。


日本文化の鑑賞の仕方、楽しみ方も一つそこに「作法」があると気づいたのだ。


京都南座 菅原伝授手習鑑                      編集局イメージ


一つ一つの作法・文化に「理由」がある。日本ならではの文化・背景(季節)も含めて、考えを深め、交流していけば、「世界中どこでも通用する」と村越のりこ氏は言う。


「堅苦しいだけのものではなくて、日本の礼儀作法(マナー)の基本は思いやりであり、おもてなしの心です。例えば、気持ちは思っているだけでは伝わりません。空港での件も、結局椅子を片付けることで、来た時どおりに綺麗にして去る――次の人のために『行動』が伴い、真意が伝わることで、相手も幸せな気持ちになります」


言葉が通じなくても優しい笑顔と心配りで世界でも人と人の和を深く広げていくことができる――その信条は、彼女のこれまでの「出逢いと縁」に裏付けられていた。


〇二つの出会い ~楊三郎美術館と裏千家茶道~

村越のりこ氏にとって、大きな出会いが二つある。一つは台湾・台北の「楊三郎美術館」に関するもの。もう一つは、マナーを学ぶ中で、自然と導かれた「裏千家茶道」との出会いである。


楊三郎美術館は、台湾の西洋美術振興や日台美術交流に尽力した台湾人画家・楊三郎氏の美術館である。村越のりこ氏はこの美術館の管理を任された。


画家・楊三郎とは、日本統治時代に台北画材店で観た日本人画家・塩月桃甫の作品に感動し、画家を志し、京都へ留学した後デビューした「画壇の麒麟児」だ。
その作品は社会情勢や政治の混沌に消えたものもあるが、残りの多くはその美術館に収蔵されている。しかし、台湾で一番大きい個人美術館にも関わらず、身内の他に管理者がおらず、「週に一回ほど」しか開いていない状態だった。


「人生は全てが本当に出逢いだ」と語るのりこ氏。


美術館を託されたのは、両親が知り合った不動産のディベロッパー、楊三郎氏の長男・楊星朗氏との縁だ。両親がアメリカで物件を探していた関係もあり、家族ぐるみでお付き合いする中で、のりこ氏は御存命だった楊三郎夫人に出会い、意気投合する。


百四歳の高齢ながらパワフルで、日本を愛する夫人から、美術館の本格的なお手伝いを依頼されることになる。それが館長業務だ。


元々、絵画は台湾を代表する素晴らしい作品で美術館自体の建物や庭も素晴らしく、週に一度しか開けていないのがもったいないと思っていたこともあり、引き受けたのりこ氏。


「日本と世界を、文化で繋ぐという心意気は同じ」と考え、夫人・御子息が亡くなった今も志を継いで、作品も含めた場そのものを「文化の交流場」として整えた。現在、休館日は月曜火曜のみ。


     楊三郎美術館館 イベント企画「ピアノ&バイオリン コンサート開催」


600坪ある庭ではカフェや松花堂弁当を楽しめるようにした。茶道裏千家のお稽古など「日本の文化や作法などに触れる講座」も開き、一方で、児童の写生大会やコンサートなど、地域の教育にも貢献する。


では、茶道との出会いはどうか?

一般的に「本格的にお茶の先生」というと幼い頃から親しんできたイメージがあるが、のりこ氏は大人になってから誘われた茶席が最初だという。もちろん興味は元々あったとのことだが、最初についた先生が亡くなり、ブランクが空いていた。


千利休茶道具「泪の茶杓」 徳川美術館蔵              編集局イメージ


天正19年(1591)2月、豊臣秀吉に切腹を命ぜられた千利休が自ら削り、最後の茶会に用いた、と伝わる茶杓です。茶会後、古田織部に与えられ、織部は長方形の窓をあけた筒をつくり、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられています。


再開することを決めたのは台北行きが決まっていた8年前、ご近所の茶道裏千家東京支部近くの茶道具店を散歩ついでに覗いた店で、店主と台湾での茶道の話をしたところ紹介されたのが今の恩師だ。これが第二の出会い。一生懸命学び真摯に茶道と向き合い、茶道裏千家正教授となる。今や自ら教室を開くに至る。


どちらも不思議な「縁」で運ばれたものだが、「気づけば自分の使命だと感じるまでになった」とのりこ氏は語る。


運ばれた縁を元に、美術館の館長として、2021年には泰明画廊(銀座)で念願の展示会を開催に尽力した。また茶の席も更に広がりを見せ、世界……少なくとも台湾という場所と日本を繋ぐ架け橋になる。どちらも「自分自身の希望」の姿であるのは言うまでもない。


〇そしてハワイへ どこでも誰でも通じる日本の文化とマナー

天から降ってきたようなタイミングで役割を打診される村越のりこ氏だが、自ら決意を新たに取り組んだ役目もある。2022年ロータリークラブの台湾支部の会長業だ。迷いはあったが「ロータリークラブは世界規模。日本と台湾の架け橋に微力であるが役に立ちたいという思いと少しでも茶道を広げたい」という一心で引き受けた。


1年の任期を終えた2023年10月20日、総会がマリオットホテルにて行われ、2,000人が集結。茶道部設立が承認され、日本人4人と台湾人20人のメンバーのお披露目となった。


実は京都のロータリークラブの元理事は茶道裏千家の15代家元・大宗匠。
そのような経緯もあり台湾支部にも丁寧な手紙が届き、日台交流の場としてますますの盛り上がりを見せる。領事館でもイベントを行い、「台日交流会」の際には領事館広報代表からスピーチも頂き、本格的な「お茶」に触れる機会を作ることが出来た。


「挨拶」や「おもてなし」で、印象は大きく変わります。
Noriko Mannersは、作法を基本から楽しく、気軽に学ぶことが出来るマナー教室です。
日本人のマナーの良さ、礼儀作法は世界からも注目されています。


「台湾には日本文化に興味ある人が多くいたこともあり、茶道とマナーから交流をするお互いにとって有意義な時間が過ごせています。こういうイベントはその場だけになりがちですが、拠点もあるためじっくりとお互いの文化を理解したうえで『マナー=心配り』を知って、それを広げていくことが出来る……よい蓄積が出来ました」


お茶の作法は、日本では四季……季節を取り入れることで感性を豊かにすることが重要だ。それはマナーも同じ。


台湾でも、土地の風習や季節にあったものを研究し、その上で例えば手紙を書いてみたり、浴衣でのお点前の機会を作ったり……文化・礼法のどちらもが楽しく取り組めるように工夫を凝らして行われている。


「マナーは人々の生活を密着しているもの人と人との潤滑油。時間のない現代人こそ、『無理をしないで』学び続けることが大切だと思います。私自身日々勉強……気づくことは無限にあります」


ロータリークラブの総会では、初めて中国語のスピーチも披露した村越のりこ氏。「一生懸命な生徒から、逆に自分が教わることが多い」と語る。台北の活動を経て、日本の文化やマナーは世界で通用する実感を得た今、親和性の高い「ある場所」を思い出した。それがハワイだ。


「昔から好きで友人も住んでいます。日本文化やマナーへの潜在的なニーズも……。動機がただしければ、良いことで進んでいけば、必ずおもてなし・思いやりの心は広がっていく」


ハワイ大学に裏千家が寄贈した茶室がある他、交歓茶会なども盛んなハワイで、世界からも注目される【日本人のマナーの良さ・礼儀作法】を、楽しく、自分が伝えられる限りを伝えていく。のり子氏の次の挑戦が始まる。


日本の伝統文化+世界のエチケットを
身近に自然にふるまえるために楽しく一緒に学びましょう。      


〇日本の文化とマナーを学ぶ『Hawaii セミナー』

日時 : 2024年4月6日 13:00pm~15:00pm

会費 : お一人様 $25 抹茶 和菓子付き

主催 : Hawaii & Noriko. Inc ノリコマナーズ
     Ka-Lai Waikiki Beach 7F ボードルーム 223 Saratoga Road Honolulu, HI 96815

連絡先: (808)442-2341 現地
E-mail: noriko@noriko-international.co.jp


メディアプロデュース

有限会社エルステュディオインターナショナル(代表:さかより のりこ)


村越のりこ氏 ホテルニューオータニ庭園にて


                                 (C)Benjamin Lee

【村越のりこ プロフィール】

台北楊三郎美術館 館長
株式会社のりこインターナショナル 代表取締役/ノリコマナーズ 代表
茶道裏千家 正教授

東京四谷生まれ。
現在、東京、台北、ハワイ(ワイキキ)の3拠点にて活動中。
海外での日本人のマナーの良さに自信と誇りを持ったことをきっかけに、この素晴らしい文化の継承をすべきと決心する。

日本の伝統文化である礼法を通じマナーを教示。自信と余裕が持て、言葉が通じなくても優しい笑顔と心配りで世界でも人と人の和を深く広げる人財の育成に日本のみならず海外でも活動。多くの方々より称賛を得ている。


<台北>

■財団法人 新北市楊三郎美術基金会 董事長

■台北牡丹ロータリークラブ 2022-2023年度 会長

 ・2023年10月20日、同クラブ内に茶道部創設

<ハワイ>

■ワイキキにオフィス設立

■2024年春、「ノリコマナーズ」本格始動。現在準備中



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

松平洋史子 大日本茶道協会会長三代目

小俣 宗苑 表千家流教授 

京都南座

徳川美術館

経済産業省

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


                                                     京都南座


日本最古の歴史をもつ劇場「南座」について

歌舞伎の祖・出雲の阿国が「かぶきをどり」を演じたとされる京・四条河原に建つ南座は、 元和年間(1615~1621)に官許された七つの櫓(芝居小屋)の歴史と伝統を受け継ぐ劇場として、江戸時代から平成の今日まで歌舞伎発祥の地で悠久四百年にわたり歌舞伎を上演し続けてきた、日本最古の歴史を有する劇場です。


明治39年より松竹の経営となり、京の年中行事である顔見世興行の連綿たる伝統を守るとと もに、大正2年、昭和4年の二度の改築を経て、元和以来の歴史を受け継いでいるのです。


昭和4年(1929)に当時の技術の粋を尽くして竣工した現在の南座は、官許の証である櫓を備 えた桃山風、破風造の外観を特徴とする建築であり、日本を代表する劇場のひとつとして、 戦前、戦中、戦後の混乱期にも演劇の灯を絶やすことなく、建築以来八十余年の風雪に耐え て皆様に愛されて参りました。さらには耐震補強大規模改修工事を終え、平成 30 年(2018 年) 秋竣工した現在の京都・南座は、京都の歴史的景観に溶け込んだ桃山風破風造りの 近代名建築の外観を維持保存し耐震強化を図ってあるのです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「日本最古の歴史をもつ劇場南座『京都ミライマツリ 2019』に最新テクノロジー+現代カルチャーのネイキッド参加!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5920503/



                                           徳川美術館心空庵及び餘芳軒


四畳半本勝手の茶室心空庵と、その東側の十畳広間を中心とした餘芳軒からなる。心空庵は茶室に三畳の水屋と矩折の腰掛待合を付ける。材木商を営んだ大寶正鑑の設計になり、霧島スギや神代材などの銘木や奇木を多用する。数寄屋の趣向を凝らした近代和風建築。


名古屋市東区徳川町にある徳川美術館。

財団法人徳川黎明会に所属するこの美術館は、尾張徳川家歴代相伝の「大名道具」多数を収蔵しており、その内容、収蔵点数、保存状態ともに国内においても極めて貴重な存在であるとされている。


                                                 徳川美術館 黒門


🐦

徳川美術館には、当時の大名が収集したコレクションはじめ、刀剣・武具類、有名な初音の調度、源氏物語絵巻など非常に多くの美術品が収蔵されていますね。


徳川

今日私達が美術品と呼んでいる種々な材質、形のものは、かっては何かしらの目的を遂行するために用いられた道具です。

美術品という言葉自体、明治以降にできた新しい言葉で、江戸時代はすべて「お道具」と称していました。

私はこれは大変いい言葉だと思うんですよ。美術品というのは横文字のアートオブプロジェクトとか、あるいわ芸術と言った場合はファインアートと言ったりします。

ところが「お道具」となるとちょっとニュアンスが違ってくるんですね。まさに文字どおり、何かを拵え(こしらえ)たりするために使うものです。

それらの「お道具」は、ある時は権力を誇示するために使われたりするものです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-6 TOKIO 2020 尾張徳川家21代当主 徳川義宜氏に聴く!徳川家康の考えた『お茶の作法と演能』とは
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/37067472/



                 松平洋史子氏

        美を求め たゆむことなき 都こそ 津山の歴史 光放たん


水戸徳川家の流れを汲む讃岐国高松藩松平の末裔。
「松平法式」を受け継ぎ、おもてなし講師として世界で活動。
大日本茶道協会会長三代目。広山流華道教授。

津山を「美都(びと)」と命名。


美都(びと)とは

津山は1300年以上の歴史と文化を有し、津山藩主松平家は徳川家康の第2子結城秀康の末裔である松平宣富を藩祖とする、徳川家とゆかりの深い城下町です。

「美都」のシンボル的存在として、津山市城東地区にある複合宿泊施設を、「美都津山庵」と命名し、映画「十六夜の月子」のロケ地となりました。

「美都」に込めた思いは、単に見せかけの美しさだけではなく。自分以外の誰かのために、自らの人生の全てをかけて成し遂げる覚悟の強さ、しなやかな強さと、深い優しさを持ち、周囲から信頼され愛され、これと決めたことをやり遂げられる、そんな人々が集い紡ぐまちを作り上げることです。                         

                                   松平 洋史子


          島根県 月照寺  松江松平藩の歴代藩主が眠る


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-8 TOKIO 2020津山の迎賓館「美都津山庵 別邸」1300年以上の歴史と文化を秘める城下町に佇む~贅沢な一棟貸の宿~
https://tokyo2020-8.themedia.jp/posts/51481424



世界でただ一つの茶筌「このみ」

「このみ」は淡竹の一種の「紋竹」で作った茶筌で、「紋」は同じものがなく、また編み糸も色々な色の糸を使用していて、世界で一つの茶筌となっています。   


わび茶の創設者「村田珠光」とは

茶筌の国内生産量のほとんどを占めて日本唯一の茶筌の生産地として有名な高山ですが、なぜ、この高山の地でこんなにも茶筌作りが盛んになったのでしょうか?


それは、今から500年以上も昔、室町幕府8代将軍足利義政の時代のお話です。
その昔、ここ高山は、鷹山氏が支配していた村でした。


この村で茶筌が作られたのは、室町時代の中頃のことです。高山城主の次男宗砌が親友の
村田珠光に依頼されて作ったのが始まりと伝えられています。


さて、茶筌作りを依頼したというこの村田珠光とは、一体何者なのでしょうか?
 実はこの村田珠光は、称名寺※という寺の住職で当時流行の連歌、和歌、書道の達人として有名な人物で、現代では、一般的にわび茶の創設者とされています。

そんな珠光と宗砌は連歌や和歌を通じて親交が厚く珠光が初めて茶道を考案したときに茶道にふさわしく茶をまぜる道具の制作を依頼され作りあげたのが、この茶筌なのです。


その後、珠光が京都へ移り時の帝、後土御門天皇が茶の湯の席へ出かけられたとき、宗砌が献上した自作の茶筌を鑑賞されました。


そして、その繊細な作りを見てお褒めの言葉を頂くと同時に、その茶筌に高穂(たかほ)という名前をつけてくださいました。これに宗砌は感激して茶筌つくりに力を入れ、その製法を鷹山家の秘伝としました。


こうして天皇が名前をつけてくださったことにより、高穂茶筌が有名になり、ここ鷹山村の名前や家名の鷹山を廃止し高穂にちなんで高山と改めました。 高山城がなくなった後も秘伝の茶筌制作、販売を許された家臣16名が秘伝としての言いつけを固く守り一子相伝の伎として、生まれて性を名乗る男子以外には、茶筌の制作を許すことはありませんでした。


時は流れて昭和の時代を迎えても、この秘伝は固く守られてきましたが、人不足によりこの制度はこわれ、長きにわたって秘伝とされてきた技術も一般に公開されるようになりました。また、500年の歴史と技術を認められ国の伝統的工芸品に指定されています。


高山では茶筌の製造に付属して、茶道具も生産されるようになりました。茶道具には柄杓、茶杓、茶合、花器、菓子箸などその種類は数えきれないほど豊富にあり、その手作りの伝統製法は秘伝として400年余りの歴史を持っています。


明治時代の終わりごろからは、伸子針をもって始まった高山の編針製造は、大正7.8年ごろから毛糸編針の出現により、一大発展期を迎えました。さらに戦後になり、女性の手芸手編みブームで編針の需要は急激に加速しました。
こうして高山は茶筌、茶道具、編針と時代を超えて竹製品の産地として有名になりました。


        室町時代から続く ’’一子相伝’’ 茶筌(ちゃせん)づくり


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


IPANG-5 TOKIO 2020 室町時代から続く ’’一子相伝’’ 茶筌(ちゃせん)づくりの技を今に伝える!~生駒市高山地区~
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/15754073



つば甚 亀田是庵が使用した部屋「茶室 是庵」
裏千家十一代家元・玄々斎が度々茶を楽しんだ茶室


金沢ゆかりの茶人として知られ江戸末期から明治初期にかけて薬種商を営んだ亀田是庵。
その亀田是庵が表千家の茶室「不審菴」を模してつくった茶室を移築した茶室です。
二畳台目出炉の茶室で、亀田是庵と親交のあった裏千家十一代家元・玄々斎が度々茶を楽しんだと言われています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「伝統を伝承して新しきをつくる『つば甚』館内編」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3897019



                                                 名水百選(天川の水)


奈良時代に高僧行基がこの地を訪れた際に、木蔭の洞窟から流れ出る湧き水に霊気を感じ、聖観音菩薩を祀る清水寺(せいすいじ)を建立した。そして、この湧水に「天から授かった天恵の水」という意味で「天川」と名づけたと言い伝えられる。


湧水量は1日約400トンに上ると言われ、豊富な湧き水は地域住民の生活用水や農業用水として長く重宝されてきた。常に清らかで澄んだ水が湧き出す天川であるが、地元の人々による水質保全活動により今日もその透明度が保たれている。


対馬暖流の影響を受けた豊かな海と、名水百選(天川の水)に選ばれた豊富な湧水に恵まれ、自給自足のできる半農半漁の島。


平城京跡から海士町の「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として御食つ國に位置づけられていた。


奈良時代から遠流の島として遣唐副使の小野篁をはじめ、承久の乱(1221年)に敗れ、ご配流の身となられた後鳥羽上皇は、在島17年余この島で生涯を終えられ、島民の畏敬の念はいまなお深い。


明治の文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、隠岐旅行の際「菱浦港」を最も気に入り8日間も滞在した。・・・小説「知られざる日本の面影~伯耆から隠岐へ」の中に著している。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「隠岐諸島の一つ海士町(あまちょう)[1]」
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18174785



                                       奈良 大和「談山神社」の蹴鞠の様子


蹴鞠は中国から仏教の伝来と共に伝えられたといわれる。その当時の形が、現在私たちが目にする蹴鞠と同じであったのかは不明である。平安時代になると鞠を蹴り上げる蹴鞠が行われたことが確認されており、一条天皇(在位986-1011)の頃には蹴鞠が宮廷貴族の遊戯として流行した。


天皇として初めて蹴鞠をされたのは後白河天皇とされ、その孫の後鳥羽院も蹴鞠をとても好まれ、伝わる処によると「此の道の長者」と称され、後鳥羽院の時代に作法や次第の基が出来たと…。 『後鳥羽院御記(後鳥羽院御鞠之書)』では沓や 襪(しとうず:沓下)のはき方に関する記述がみられる。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020後鳥羽院に由緒がある伝承と文化「自立・挑戦・交流×継承・団結 〜心ひとつに!」みんなでしゃばる(引っ張る)島づくり〜[2]
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18534864




裏千家『献茶式』

茶道裏千家家元 千 宗室 氏


                                     大阪 水無瀬神宮 裏千家献茶式一式


新古今和歌集 後鳥羽上皇

<水郷の春望>

見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ


                              国宝 後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)


水無瀬神宮とは

天王山※¹の麓、北摂の住宅街の中に鎮守の杜に囲まれた神社。
自然の恵みを感じること、それは「あたりまえ」に対する感謝の心。
四季を感じ自然の恵み、命の源、水への感謝の心を感じる時間が流れる。


※1 後年の軍記に、南北朝や応仁の乱では戦略上の要地として当地は争奪の舞台となり山城も築かれる。特に有名な故事として「天下分け目の天王山」とする言葉は天正10年(1582年)6月に信長を討った明智光秀に対する仇討ちを企てた秀吉の戦いはこの天王山で繰り広げられた。…とある。


さて、ここから以下は前号の水無瀬神宮(その1)を受け、年間祭事予定となります。 水無瀬神宮のご解説に従い、じっくり耳を傾けていきましょう。 


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020水無瀬神宮 ~招福の風と音と水~「見渡せば山もと霞む水瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(その2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/18953112



竹一重花入れ 滝津瀬  裏山の竹で作る

また時には過行く名残の季節味に、篭にたっぷりと秋草を盛るのも楽しいものです。



表千家十三代即中斎 千宗佐家元の教え

「表千家のお点前は、ごくごく自然の動作でしなさいと、そして覚えるより慣れなさいとも、また茶花は秋の草は別として、それ以外は、1~2種に、また生けようと思う花を左手に取り、とり合わせて眺めてみて、一度に花入れに挿すことを忘れないように。」・・・



利休七則

1・降らずとも傘の用意

   備えとは、万人の憂いを想定すること

1・刻限は早めに

   ゆとりとは、自らの心がけ次第で平常心でいる事

1・夏は涼しく冬暖かに

   もてなしは、相手を思う心で5感を使って工夫すること

1・花は野にあるように

   ものの表現とは、本質を知り、簡潔に伝える事

1・炭は湯の沸くように

  準備・段取りとは、要となるツボをおさえること

1・茶は服の良きように点て

   事を行うには相手の気持ち・状況を考える事

1・相客に心せよ

   何事に接するに、無垢な心で、素直な態度で


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-7 TOKIO 2020「自然と暮らす茶の湯の楽しみ方」
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/49215046



                  草庵は 紅葉を借りて 晴れ着かな ー 鎹八咫烏 (対来閣にて)


                 茶室 対来閣


宗鏡寺の歴史

圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)は、 出石町東北、入佐山にあり、開山は京都五山の一つ東福寺の大道一以 (だいどう いちい) 禅師でした。

代々、出石城主の菩提寺でありました。


開基は1392年に、当時の出石城主で山名陸奥守氏清公によって、建てられました。寺名は氏清公の法名「宗鏡寺殿」を 以って名づけたと伝えられます。
当寺は、山陰唯一の伽藍を誇っていましたが、織田信長の但馬征伐で山名家が滅び、寺もまた荒廃したのです。


1616年、小出吉英の援助の元、沢庵和尚を招き、再興されました。
(沢庵和尚紫衣事件は1629)
以来、京都紫野大徳寺派の但馬における中本山として、現在に至ります。


本来、出石出身の沢庵は才に長けて京の都大徳寺でも精進して注目を浴びる存在でしたが、再び故郷へ呼び戻された訳ですね?


それ故、沢庵和尚は開山…寺院を開いた第一世住持。 開基…寺院を創建した人物…となりました。


沢庵和尚の故郷の寺であることから「沢庵寺」と呼ばれ、
人々に愛されるのです。


さて、もう一度沢庵和尚の

数奇な人生を辿ってみましょう!


沢庵和尚は、天正元年(1573)12月1日出石城下(現:兵庫県豊岡市出石町))に生まれました。
父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)で、和尚8歳の時、山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡、父は浪人となりました。


その2年後、出石浄土宗の唱念寺(浄土宗)で出家し春翁と称しました。


14歳の時、出石藩主菩提寺・宗鏡寺(禅宗)に移り、希先西堂の弟子になり名を秀喜と改めました。 19歳(1591)の時、希先が死去したので、翌文禄元年(20歳)に時の出石藩主・前野長泰の招きで京都の大徳寺から董甫宗仲(とうほそうちゅう)が住職に任じました。


宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、大徳寺との関係が生まれました。


1604年、沢庵和尚33歳の時、一凍紹滴の印可を受け、
「沢庵」の号を授かる。


22歳のとき董甫が京都へ帰るのに従って、大徳寺塔頭三玄院に入り、そこで春屋宗園について、宗彭(そうほう)と名を改めました。


28歳の時、董甫が死去したのを機に京都を去り、堺に出て、大安寺に寓居していた建仁寺派の学僧文西西堂について、儒学、詩歌を学びました。


そして29歳の時、文西が死去し、同じ堺の南宗寺陽春庵にいた一凍紹滴(いっとうじょうてき)の許に入り、33歳(1604年)の時、一凍の印可を受け沢庵の号を授かりました。


宗鏡寺には花びらが開かないうちに落ちてしまうと言われる不思議な「椿」がございます。


その昔、出石城主の側室が、世継ぎを産む必要がなくなったため、庵に幽閉されました。
庭先の椿をじっと見つめながら過ごしていましたが、さびしさや嫉妬のあまり、とうとう自害してしまいました。


その後、椿は毎年花はつくが、花びらが開かないうちに落ちるようになったと言われています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 圓覚山宗鏡寺(通称沢庵寺)と沢庵和尚の生い立ちとその風土…生活の美意識
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9808411



                  沢庵和尚


沢庵和尚

柳生宗矩・宮本武蔵の剣は心身鍛錬の師匠・沢庵禅法に依るものです。出石に生まれ、漬物の "たくあん漬" は自ら創作し、広めたものと伝えられています。


宗鏡寺には沢庵和尚が作られた「鶴亀の庭」や「心字の池」、和尚お手植えと言われています 「胡蝶わびすけ」、和尚の夢に出てきたとされる「夢見の鐘」等が現存しています。


               沢庵寺 境内 投淵軒

 沢庵和尚が家光の招きで、江戸品川東海寺に移る前の、8年間を過ごしたとされる投淵軒



 48才から8年間過ごした「投淵軒」では数多くの和歌をつくり、書物をあらわしました


昨夜は寝ぼけて夢でも見ていたのか⁉あと丁度半分と申し上げましたが、今朝確認してみると何とまだ三分の一も紹介できてなくて…まるで狐につままれたような気分でした・・・


それでは、前号に引き続き「宗鏡寺の境内」を、ご案内いたします。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 出石城下町の名刹圓覚山 宗鏡寺と宮本武蔵心の師 沢庵和尚(その2)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9835936



10年にわたる方丈修復前、最後の特別公開になります。

法堂並びに狩野探幽筆 法堂天井画「雲龍図」(重要文化財)

絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)35歳の時の力作。法堂内で手を叩くと、まるで龍が鳴いたように音が響くことから「鳴き龍」とも称されています。


大徳寺

京都市紫野(むらさきの)船岡山の北辺に広大な境内地を有する臨済宗大徳寺は、元応元年(1319)、東山に遁世していた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、播磨の武将赤松則村の援助でこの地に大徳庵を作ったのに始まり、正中元年(1324)、妙超に厚く帰依した花園・後醍醐両天皇が船岡の雲林院(うじゐ)の跡地を寄進したことによって寺基を拡張し、龍宝山大徳寺として開山しました。


妙超は入宋して日本臨済禅特に公家禅宗に多くの人材を残した南浦紹明(なんぼしょうみょう)の門下であるが、若くして天下の諸禅師を歴参し、京都に帰って天台・真言の旧仏教と論争して禅旨を明確にするに及び、その純粋に宋朝風の禅が朝廷の尊信をえたものであって、妙超は興禅大燈国師の号を賜わり、大徳寺は勅願所とされたのであります。


鎌倉幕府滅亡の元弘三年(1333)、大徳寺は五山の一に加えられ、翌建武元年(1334)には五山第一の南禅寺とならんで五山の上位に列しました。これは建武新政権によって京都中心の五山制度が定められた結果であります。その間、大徳寺は妙超の門派のみが相承することを特許されていました。その二高弟のうち、徹翁義亨(てっとうぎこう)は大徳寺を継いでその基礎を固め、関山恵玄(かんざんえげん)は妙心寺を開いたのでした。


しかし建武の新政が瓦解して足利政権が成立すると、後醍醐天皇と関係の深かった大徳寺は足利将軍家から軽んじられ、五山から除かれてしまいました。
至徳3年(1386年)には、十刹の最下位に近い第9位となっています。


このため第二十六世養叟宗頤は、永享3年(1432年)足利政権の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心するという独自の道をとったのでした。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)といいます。


その後の大徳寺は、貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出しました。


侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う者たちが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっています。また国宝の塔頭龍光院密庵(みったん)など文化財に指定された茶室も多く残っているのです。


このため京童からは「妙心寺の算盤面」「東福寺の伽藍面」「建仁寺の学問面」などと並んで「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と皮肉られました。


享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱(1467–77年)で当初の伽藍を焼失しましたが、一休宗純が堺の豪商らの協力を得て復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けたのです。


江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持の高僧・沢庵宗彭が紫衣事件で流罪の圧迫を受けましたが、三代将軍家光が沢庵に帰依したこともあって幕府との関係ものちに回復したのでした。近世には「二十四塔頭、六十寮舎・子庵」あるいは「二十四塔頭、准塔頭五十九宇(「六十五宇」とも)」などと呼ばれ、末寺は25ヶ国280余寺、末寺の塔頭130余院を数えるほど栄え、朱印地は2011石余を有したのです。


この広大な寺領が大徳寺の経済的基盤であったのですが、明治維新後の上知令によって多くを失ってしまいました。なんとか堂宇を維持するため明治11年(1878年)、塔頭13寺を合併(事実上廃絶)、4寺を切縮、20寺を永続塔頭とする縮小を行う事で、寺運は栄え今日に至っています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 ~本朝無双之禅苑 大徳寺本坊~ 特別公開のご案内
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9733249/



「京都の伝統文化と世界を繋げる」

京都・禅宗寺院 大徳寺本坊 伽藍特別公開並びに経蔵(重文)初公開!また大徳寺塔頭3寺院や、壬生狂言で有名な壬生寺などで非公開文化財の特別公開ご案内


初公開「一切経」など経典を納める「八角輪蔵」がある大徳寺本坊 経蔵(重文)


まずは、2024年3月より、京都でも有数の規模を誇る禅宗寺院「大徳寺」内にある塔頭寺院「黄梅院」、「興臨院」、「総見院」の春季特別公開を順次開催いたします。


大徳寺は織田信長や豊臣秀吉など戦国大名ゆかりの地で、その戦国武将に仕えた茶聖 千利休や日本美術史上の重要人物の一人、狩野永徳を代表とする狩野派などが活躍した当時の文化の最先端であり、後世の日本文化に多大な影響を与えた場所です。


毎年春と秋に特別公開する黄梅院、興臨院、総見院では、その季節ならではの風景の移り変わりとともに、通常非公開である建造物や重要文化財を拝観できるため、観光シーズンには全国から多くの拝観者が集まり賑わいを見せます。


次に、大徳寺本坊 伽藍が2024年4月25日(木)より特別公開します。昨春に盛況だった企画が今年グレードアップして開催されます。


本公開では、寛永13年(1636)に建てられ「一切経」など経典を納める「八角輪蔵」がある「経蔵」(重文)を初公開します。通常一般非公開である、聚楽第の遺構と伝わる国宝の唐門、狩野探幽が「雲龍図」を描いた法堂(重文)、金毛閣(重文)などを解説付きでご案内します。


最後に、地蔵信仰・壬生狂言・新撰組のキーワードで知られる壬生寺が4月27日(土)〜5月5日(日)の期間に公開します。心地良い春の季節、日常の喧騒を忘れ、新緑を愛でながら贅沢な拝観の時間をお過ごしいただけます。


後醍醐天皇 肖像

後醍醐天皇から「本朝無双之禅苑」と評された禅宗の名刹、大徳寺は大燈国師によって1326年に創建されました。 一休宗純や沢庵宗彭などの名僧を輩出したほか、千利休や狩野永徳など後世の日本文化に多大な影響を及ぼした人物たちが活躍した場でもあり、数多くの貴重な文化財を今に伝えます。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-7 TOKIO 2020京都・禅宗寺院 大徳寺本坊 伽藍2024年春特別公開並びに経蔵(重文)初公開!!大徳寺塔頭3寺院や、壬生狂言で有名な壬生寺など非公開文化財を特別公開
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/49748199



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ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
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ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
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ZIPANG-8 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見その1. 全世界との情報の共有化その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重!その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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